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早野たづ子創作人形の世界3

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Published on Apr 20, 2014

早野たづ子氏の手記より

昭和20年3月10日の東京大空襲の日。
私は17歳の女学生でした。
浅草に住んでいた私の家族は
火の粉が横殴りに吹きつけ、
髪の毛がチリチリ燃え中、
持、ってきた荷物を棄て、言問橋を渡って逃げました。
橋はそのうち、持ち込まれた荷物や箪笥に火がつき
渡れなくなりました。
橋を渡れたか、渡れなかったかが命の分け目となりました。

火が収まり、荷物を棄てた場所に戻ると
そこは黒焦げの人の山。
あたりはシーンと静まり返っていました。
そこに信じられない事に
4,5歳の男の子がひとりボーっと立っていました。

「お父さんは?」と聞くと
「スマトラ」と答えました。
「お母さんは?」と聞くと
「あっち」と黒焦げの人の山を指しました。
「おにいちゃんは?」
「いない」
「おねえちゃんは?」
「あっち」
また人の山を指しました。

あの強い火勢の中どうしてこの子だけ
助かったのでしょう?
恐怖と寒さでしょうか
ブルブルと震え続けていました。
しかし、私はあまりに凄まじい光景に、
着ていた紺のオーバーで
男の子をくるんでやる事さえ気づかないでいたのです。
このことは、今思い出しても辛くなります。

通りがかりの人から「浅草小学校」が焼け残り
医者もいるという事を聞き、
男の子を連れて行って看護婦さんに子どもを託しました。
「明日きっと来るから、ここで待っていてね」
といって別れ、市川の祖父の家まで歩きました。

翌日弟の洋服を持って、浅草小に行きましたが
男の子はもういませんでした。

毎年3月になると男の子のことを思い出します。
「あの子はあんなに幼いのに
地獄を見なければならなかったのだ。
孤児になり、厳しい戦後を生きていけたのだろうか?」

子どもは平和な世の中で
愛情に包まれて、笑顔でいて欲しい。

このことが50年間幸せに包まれた子どもの人形を
作り続けている原点になっています。

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