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Published on Mar 31, 2019

ガートルード・ベル, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1... / CC BY SA 3.0

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ガートルード・ベル

ガートルード・マーガレット・ロージアン・ベル(, 、1868年7月14日 - 1926年7月12日)は、イラク王国建国の立役者的役割を果たし、「砂漠の女王」 の異名をとったイギリスの考古学者・登山家・紀行作家・情報員。
ガートルード・ベルはイングランド北東部ダラムの裕福な家庭に生を受け、わずか3歳の時に母を亡くしたが、頭脳明晰だった彼女はオックスフォード大学レディー・マーガレット・ホールで現代史(当時のメインストリーム的教養に属するラテン語やギリシャ語を専攻できるのは男性に限られていた)を学び、弱冠20歳で最優等の成績をおさめ卒業する。

ヴィクトリア朝時代のイギリスでは女性の大学進学はごく稀であり、ベルは社交界にデビューはしたものの高学歴が災いして煙たがられ、3年経っても求婚者ひとりあらわれなかったという。

やがて社交界に見切りをつけたベルは1892年、ペルシャ公使としてテヘランに赴任していた伯父を頼り同地に旅立ち、公使館員の一人と交際するようになるも、翌年には交際相手が急逝してしまう。恋人の急逝で空いた心の隙間を満たすためか彼女は旅と登山に憑かれるようになる。

1894年、初のエッセー集「ペルシャの情景」を刊行。その後2度にわたって世界一周旅行を行い、旅行中の1899年と1903年には日本にも立ち寄っている。後に著書『シリア縦断紀行』でベルはシリア訪問時戦われていた日露戦争について、シリアの各地で質問攻めにされたと記述している。初の日本訪問の同年、アラビア語を学ぶためエルサレムに長期滞在するかたわら、案内人を連れシリアやヨルダンを馬でめぐり砂漠に魅了された。また、アルプス登山を繰り返し、1900年には当時未踏だったエッドゥルーズ山地の第5峰を征服、同峰は「ガートルード峰」という呼称を現在に伝えている。

登山と同時並行で考古学を学び、1905年、シリアを経てユーフラテス川をめぐる旅に出る。翌年から考古学雑誌にベルの紀行文が掲載されはじめるようになり、1907年には彼女の連載が「シリア縦断紀行」として単行本化され、

その後も彼女の砂漠めぐりは続き、1911年にはメソポタミアとシリアへ旅行した。シリアの旅の時に彼女の案内人を務めたのが後の「アラビアのロレンス」ことT・E・ロレンスで、ベルとロレンスはこの時初めて出会った。

1914年にはアラビア半島奥地へと旅立つが、旅程半ばにして第一次世界大戦が勃発、オスマン帝国の参戦により、ベルは帰国を余儀なくされ、赤十字に勤務、西部戦線に身を置く事になる。1915年11月に彼女は、新設されたイギリスの外務省管轄下ののカイロに置かれた諜報機関の情報員として召集を受け、オスマン帝国に対するアラブ反乱にたすざわる。T・E・ロレンスは、既に・・等の戦闘に参加していたが、1916年10月にアラブ局へ召集を受けてガートルード・ベルと再会し、アカバ港やヒジャーズ巡礼鉄道線などへのゲリラ工作、ベルはバスラに上陸を果たしたイギリス軍と共にメソポタミアの地からオスマン帝国を一掃する作戦の援護に携わる。現地からロンドンに送られた彼女の報告の内容は細密な分析を極め、時にはイギリスの政策の批判にまでおよんでいる。

イギリス軍のバグダード占領後、占領軍の一員としてベルは行政に携わり、アラブ人の陳情を多く受けた後、ロレンスとともにパリ講和会議に参加、アラブ人への公約を果たすべく尽力を重ねるが、実らなかった。すでに1917年英仏間でサイクス・ピコ協定が締結されており、列強間の利害の前に中東の地はイギリスとフランスの委任統治領として分割が決まった。

この間、1918年には、小アジア、シリア、アラビア、ユーフラテスの探検に功績があったとして、王立地理学会から金メダルを贈られた。

ベルのイラク統治政策の基本理念は「イラク統治ではシーア派を登用しない」というものだった。この理念はバグダードのスンナ派のある部族のナシーブ(名家)の長をベルが訪ね、イラクの統治についての意向を探った時のナシーブの長の意見を踏襲したものである。しかし、イラクの人口の5割を超えるシーア派の排除は、その後のイラクに大きな負の遺産を残す事になる。

バグダード陥落後、イギリスは主任政務官パーシー・コックス()、弁務官代理ウィルソン()を派遣した。この2人がメソポタミアの地を治め...

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