Loading...

ボスニア・ヘルツェゴビナ

48 views

Loading...

Loading...

Transcript

The interactive transcript could not be loaded.

Loading...

Rating is available when the video has been rented.
This feature is not available right now. Please try again later.
Published on Dec 21, 2018

ボスニア・ヘルツェゴビナ, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=8854 / CC BY SA 3.0

ボスニア・ヘルツェゴビナ

ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエボで、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国のふたつの構成体からなる連邦国家でもある。

ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビア、モンテネグロと接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。

正式名称は、ボスニア語・クロアチア語で (ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)、セルビア語で (ボスナ・イ・ヘルツェゴヴィナ)。

公式の英語表記は、。

日本語の表記は ボスニア・ヘルツェゴビナ、または ボスニア・ヘルツェゴヴィナ。

現在のボスニア、ヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族のイリュリア人が住んでいたが、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世のころにはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、カトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。

15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラム教に改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではイスラム教徒の人口比率が高まった。首都であるサラエボはオスマン帝国の(1580–1867、Bosnia Eyalet)や(1867–1908、Bosnia Vilayet)の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。

19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1831年に(1831–1833)。1875年にが起きると、この反乱を口火としてと露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や、汎スラヴ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。

第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。

ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。

ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム教徒(ムスリム)たちは多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。

長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、サラエボはユーゴスラビアのロック・ポップスの一大拠点となった。一方、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。
1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んだ。

正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ(この3つの民族は互いに言語・文化の多くを同じくする一方、異なる宗教に属していた)。

1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。アリヤ・イゼトベゴヴィッチ大統領などの数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体はそれぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。

ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、ラドヴァン・カラジッチを大統領とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が...

Loading...

When autoplay is enabled, a suggested video will automatically play next.

Up next


to add this to Watch Later

Add to

Loading playlists...