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桜田門外の変

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Published on Jan 26, 2017

午前8時、登城を告げる太皷が江戸城中から響き、それを合図に諸侯が行列をなし桜田門をくぐって行った。尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時頃、彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出た。彦根藩邸から桜田門まで三、四町(327から436メートル)、彦根藩の行列は総勢60人ばかりだった。雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、とっさの迎撃に出難く、それは襲撃側に有利な状況だった。また江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲った前例はなく、彦根藩行列の警護は薄かった。もっとも直弼の元には以前より不穏者ありとの情報が届いていた上、当日の未明にも直接の警告があったが、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと直弼は判断し、敢えてそのままに捨て置いた。登城する直弼の駕籠は、彦根藩上屋敷の門を出た後、内堀通り沿いを進み、江戸城外の桜田門外に差し掛かり、そこで浪士たちの襲撃を受けた。
先供が松平親良邸に近づくと、まず前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づいた。彦根藩士・日下部三郎右衛門はこれを制止し取り押さえに出たが、森は即座に斬りかかった為、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介という異説もある)が合図のピストルを駕籠めがけて発射した[48]。これを合図に浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃が開始された。
発射された弾丸によって、直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、修錬した居合を発揮すべくもなく、動けなくなった。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かき、徒歩人足はもちろん、彦根藩士の多くも算を乱して遁走した。残る十数名の供侍たちは駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置された。護衛の任にある彦根藩士たちは、雪の水分が柄を湿らせるのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、これと鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できなかった。このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んだりして、指や耳を切り落とされるなどした。
こうした防御者側に不利な形勢の中、彦根藩士も抵抗を行い、結果として襲撃者側も被害が拡大した。二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒し、さらなる襲撃を防いだ。同じく駕籠脇の若い剣豪・永田太郎兵衛正備も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせた。しかし、河西が斬られて倒れ、永田も銃創により戦闘不能になる。乱闘により、襲撃者側で当初戦闘に参加しない予定だった斎藤監物も、途中から戦闘に加わった。
やがて、護る者のいなくなった駕籠に、次々に襲撃者の刀が突き立てられた。先ず稲田が刀を真っ直ぐにして一太刀、駕籠の扉に体当たりしながら駕籠を刺し抜いた。続いて広岡、海後が続けざまに駕籠を突き刺した。この間、稲田は河西忠左衛門の反撃で討ち死にし、河西も遂に斃れた。そして、有村が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出した。直弼は既に血まみれで息も絶え絶えであったが、無意識に地面を這おうとした。有村が発した薬丸自顕流の猿叫(「キャアーッ」という気合い)とともに振り下ろした薩摩刀によって、直弼は斬首された。事変の一部始終をつぶさに見ていた水戸藩士・畑弥平は、襲撃から直弼の首級をあげるまで「煙草二服ばかりの間」とのちに述懐しており、襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十数分の出来事だった.

襲撃者
関鉄之介(水戸浪士。現場総指揮。斬り合い不参加、京に向かい諸国潜伏の後捕縛、文久2年(1862年)斬罪。享年39)
岡部三十郎忠吉(水戸浪士。検視見届役。斬り合い不参加、京に向かい諸国潜伏の後捕縛、文久元年(1861年)斬罪。享年44)
稲田重蔵正辰(水戸浪士。闘死。享年47)
山口辰之介正(水戸浪士。重傷負い自刃。享年29)
鯉淵要人珍陳(常陸神官。重傷負い自刃。享年51)
広岡子之次郎則頼(水戸浪士。重傷負い自刃。享年20)
佐野竹之助光明(小普譜。自首後、傷により死亡。享年21)
斎藤監物一徳(常陸神官。自訴後、傷により死亡。享年39)
黒澤忠三郎勝算(水戸浪士。自訴後、病死。享年33)
大関和七郎増美(水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年26)
森五六郎直長(水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年24)[注釈 52]
蓮田一五郎正実[注釈 53](水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年29)
森山繁之介政徳(水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年27)
杉山弥一郎当人(水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年38)
広木松之介有良(水戸浪士。2度西へ向かった後、文久2年(1862年)鎌倉・上行寺墓地で自刃。享年25)
海後磋磯之介宗親(常陸神官。潜伏後、菊池剛蔵と改名。天狗党の乱に参加、維新後警視庁・水戸県警察本部勤務。明治36年(1903年)没。享年76)
増子金八誠(水戸浪士。京へ向かった後各地に潜伏し、1881年(明治14年)没。享年59)
有村次左衛門兼清(薩摩浪士。重傷負い自刃。享年23)
彦根藩側の人物
死亡
井伊掃部頭直弼(大老。彦根藩35万石藩主。享年46)
岩崎徳之進重光(伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡)
小河原秀之丞宗親(小姓。負傷、帰邸後死亡。享年30)
加田九郎太包種(騎馬徒士。闘死。享年31)
河西忠左衛門良敬(剣豪。闘死。享年30)
日下部三郎右衛門令立(物頭。負傷、藩邸で死亡。享年39)
越石源次郎満敬(負傷、帰邸後死亡)
沢村軍六之文(闘死)
永田太郎兵衛正備(闘死)
重傷
文久2年(1862年)下野佐野に配流処分
片桐権之丞
桜居猪三郎
柏原徳之進
草刈鍬五郎
松居貞之進
萩原吉次郎
政右衛門
勝五郎
軽傷
帰邸のため入獄、文久2年(1862年)切腹処分
藤田忠蔵
水谷求馬
元持甚之丞
渡辺恭太
吉田太助
無疵
帰邸のため入獄、文久2年(1862年)斬首
朝比奈三郎八
朝比奈文之進
小幡又八郎
小島新太郎
長野十之丞
襲撃に関与した人物
金子孫二郎教孝(水戸浪士。郡奉行。首謀者。京への途上伊勢四日市にて捕縛、文久元年(1861年)斬罪。享年58)
高橋多一郎愛諸(水戸浪士。小姓頭取、矢倉奉行。首謀者。大坂にて自刃。享年47)
高橋庄左衛門諸恵(多一郎の長男。大坂にて自刃。享年19)
有村雄助兼武(薩摩浪士。次左衛門の兄。薩摩藩とのパイプ役。金子・佐藤と共に京に上る途上、薩摩藩兵により捕縛。切腹。享年26) 
佐藤鉄三郎寛(水戸浪士。金子と共に伊勢四日市にて捕縛。追放刑。後に『佐寛筆記』を記した。1915年(大正4年)没。享年80)
川崎孫四郎健幹(水戸浪士。郡吏。大坂で連絡係。自刃。享年35)
小室治作(高橋に随行、自刃)
大貫多介則光(高橋に随行、捕縛後獄死。享年26)
山崎猟蔵恭礼(薩摩藩士との連絡役、捕縛後絶食死。享年33)
島男也竜雄(笠間藩士。高橋に随行、捕縛後1861年獄死。享年53)
小野寺慵斎(土浦藩士。兵学者。参謀の一人。1861年自刃)
宮田瀬兵衛(水戸藩士。変後に一味だと熊本藩 細川邸へに自訴、獄死。享年47)
木村権之衛門(水戸藩士。計画に参加、江戸で薩摩藩との連絡役。変には直接参加せず帰藩した。文久3年(1863年)3月26日死去。享年40)
その他の人物
飯田左馬忠彦(国学者。同事件への関与を疑われて囚われたために抗議自殺した。享年62)
滝本いの(関鉄之介の愛人。元吉原谷本楼の妓。鉄之介の潜伏の手助けをした。鉄之介を追う幕吏に捕らえられ伝馬町牢で拷問後、獄死。享年23)
佐久良東雄良哉(京都妙法院の武士。高橋多一郎・庄左衛門を匿ったため捕縛、絶食死。享年50)
後藤権五郎輝(水戸藩郷士。変には関わっていないが元一味。広木松之介を名乗って自首。文久2年(1862年)江戸・伝馬町の牢で獄中死。享年32)

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