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Published on Mar 31, 2019

シュリーヴィジャヤ王国, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1... / CC BY SA 3.0

#タイの歴史
#フィリピンの歴史
#マレーシアの歴史
#スマトラ島
#かつて存在したアジアの君主国
#港市国家
#650年に成立した国家・領域
#1377年に廃止された国家・領域
シュリーヴィジャヤ王国

シュリーヴィジャヤ王国(シュリーヴィジャヤおうこく、Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)はインドネシアやマレー半島、フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。漢文では「室利仏逝」と音訳表記される。また、アラブの資料では「ザバック」「サバイ」「スブリサ」の名でみられる。王国の起源ははっきりしないが、7世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置を占めるようになった。

シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの港市国家をしたがえる交易帝国であり、東はスマトラ島のジャンビ、西はマレー半島西岸のクダないし北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていた。この海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、中国やインドともさかんに通商をおこなった。旅行者の記録ではスマトラの沿岸部では金貨が流通していたが、内陸部には及んでいなかったとしている。

タイ南部スラーターニー県のチャイヤーがシュリーヴィジャヤの首都だったと主張する歴史家がいて、この説が世界的に受け入れられつつある。杜佑の『通典』によれば、チャイヤーは以前盤盤王国といわれ、唐時代には1,000人の仏僧がおり、10以上の仏教寺院があった。チャイヤーのボーロマタート寺院にはシュリーヴィジャヤ様式の代表的寺院である。

1920年代、フランス人歴史学者ジョルジュ・セデスが、『新唐書』に漢文で「室利仏逝」と記される国が、古代ムラユ語(古マレー語)碑文にいうシュリーヴィジャヤ("Sribhoja")ではないかと指摘したことにより、諸資料が再検討に供され、研究が進展した。しかし、セデスの説は漢籍には、「室利仏逝」は670年代に出現し、741年まで唐に朝貢する国として登場し、碑文の古代ムラユ語の表記には、南インド系のパッラヴァ文字が用いられている。碑文は10点ほど残り、王国はしばしば「カダトゥアン」と呼ばれる。

マラッカ海峡周辺の地域に外側から最初に強い文化的影響を与えたのはインドを起源とするシヴァ信仰(のちのヒンドゥー教)であり、また、スマトラには仏教が425年頃までには伝来している。

西暦550年頃、シュリーヴィジャヤ王国の起源となる勢力となったのはメコンデルタにあった扶南であり、それがかつての属領真臘におわれ、タイのバンドン湾にあった盤盤に亡命政権を作り、のちに「赤土国」を吸収し、「室利仏逝」として670年に唐に入港した。のちの三仏斉はジャンビとケダーとチャイヤーの3国による朝貢を目的とした連合王国である。

7世紀には唐の僧、義浄がインドへの旅の途次、この地に長期間滞在し、記録をのこした。彼の記録は7世紀後半のシュリーヴィジャヤについての貴重な資料のひとつとなっている(詳細後述)。7世紀から9世紀にかけて、シュリーヴィジャヤは貿易や征服を通じて地方の支配を始め、683年にダプンタ・ヒャン王はパレンバンとを支配下におさめた。さらに686年にジャワの「訶陵」王国も征服しシャイレーンドラ朝を建国した。これは大乗仏教の王国であり、8世紀末にボロブドール寺院を建設した。これは世界最大の大乗仏教寺院である。

南インドの文字で記された碑文資料は、パレンバン、バンカ島、ジャンビ、スマトラ南端のパラス・パセマなどから出土しており、いずれも7世紀後半のものである。これらの碑文から、当時のシュリーヴィジャヤでは大乗仏教がおこなわれていたこと、兵2万人の動員が可能であったこと、スリ・ジャヤナーシュという王が「幸ある園」を建設したことなどが知られる。

「室利仏逝」の記録は、741年の朝貢を最後に姿を消している。マレー半島中部のナコンシータマラート(タイ王国ムアンナコーンシータンマラート郡)で発見された、775年のサンスクリット語のリゴール碑文には、ヴィシュヌという名の「シャイレーンドラ王家のシュリーヴィジャヤ王」が3寺院を建立したと記されている。この時期、シュリーヴィジャヤ王国グループにおいてマハラジャ(王の中の王)の称号がシャイレーンドラ王家パナンカランに授与され、830年ごろバーラプトラがジャワを追放されるまで、シャイレーンドラ朝がシュリーヴィジャヤ・グループのリーダーであった。

その後主要国3国(上記)によって「三仏斉」...

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