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【前半】「いぬのせなか座×アーギュメンツ#2トークイベント」山本浩貴×福尾匠 @美学校 2017/07/17

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Published on Aug 12, 2017

後半はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=13CXa...

撮影・編集=佐藤駿(犬など)

山本発表資料:
https://www.dropbox.com/sh/uslsl9cewa...
福尾発表資料:
https://www.dropbox.com/s/c7r5vhsddz4...

いぬのせなか座という集団/媒体のメンバーである山本浩貴は小説や詩をベースとした表現を「私の死後の私」の生存可能性を構築する集団制作の場として思考している。書くことにおいて、書かれたものにおいて、共同制作者を含む環境を別様に圧縮するものとして私を結び変えることを試みる彼の活動は、近年は雑誌『早稲田文学』の編集、『ユリイカ』への最果タヒ論の寄稿などオーバーグラウンドの領域にまで拡張されつつある。

『アーギュメンツ#2』に佐々木友輔の映像作品『土瀝青 asphalt』と彼の「揺動メディア論」を同時に批評する論考を寄せた福尾匠は、その論考を通して映像とその傍で書かれた言葉を干渉させ、新たなアレンジメントを構築することを試みている。彼は自身の研究においては『シネマ』と映画、哲学と芸術、言葉と物をいったん二元論的に分離したうえで再接続する方法あるいは思考としてドゥルーズを読み変える方途を探っている。

前半のパートでは、山本と福尾がそれぞれ「主体とアレンジメント」というテーマのもとに発表を行う。山本はまず、今世紀に入ってからの日本文学のひとつの潮流を、従来の一人称/三人称の枠に収まらない「移人称小説」(渡部直己)の台頭として見る批評的視座から着想を得つつも、人称という単位を基礎に置くこと自体につきまとう粗さを、作品をつぶさに読むことで指摘する。柴崎友香などの作品においては人称の移動というよりは一文ごとに別なる主体と環境が埋め込まれ、それらの配置として小説が組み立てられているというようなより複雑な運動が起こっている。山本はこうした小説の方法論をさらに発展させる手掛かりとして、大江健三郎によって実践された私小説(作品内の統合論理=作り手とする形式)を換骨奪胎する手法、いわば「擬似私小説」に着目する。一文ごとの〈私+環境〉の連なりをめぐる激しい移人称的運動が、文章全体から創発されざるをえない単一の制作論理=作り手を内側から組み替え複数化していくという図式を山本は置き、さらにこうした言語表現が可能にする主体の多元性を〈私+環境〉の配置の問題へと敷衍することで、詩をそのような〈私と世界のレイアウト〉の操作をめぐる高密度な道具とする方途を見出す。そうした視座での思考は、貞久秀紀の「明示法」や大江の正岡子規論における「写生」の問題から、主体とオブジェクトのミニマルな関係における多重性を描出する論理を取り出す。いうまでもなくこうした論理は、いぬのせなか座の集団制作の背景をなしているものでもあるだろう。

福尾は主体あるいは主体が属する時空の多元性を表現する際のもっとも基礎的な次元にメタフォリカルなものが要請されるのではないかという問題提起を行う発表をする。彼はまず、ルイス・ブニュエル『欲望なあいまいな対象』の物語論的な構造を精査することで、この映画における「二人一役」あるいは一人の女の二人への分裂および重ね合わせという多元的な構造が、逆説的にも、それをなにか別のもののメタファーとして観客に読み取らせ一元化されることで成立するものであることを示す。メタファーあるいは解釈は多元的なものを見過ごさせるものとして否定的にみられてきたが、福尾はメタファーが多元的なものへと誘い込む「疑似餌」として、そしてさらに多元的なものの表現を可能にする基礎として機能する場合もあることを示す。次に彼は磯崎憲一郎の『終の住処』が「Aと思ったらBだった」という構造を、Aを様々に多元化しながらBを一貫して謎である妻の存在に重ね合わせることで変奏するものとして読む。ここでもAにおける強い情動がただ複数化するのをBの解釈に誘い込むことで防ぐという『欲望のあいまいな対象』と類似した論理が組み込まれている。ブニュエルや磯崎の表現は、メタファーという疑似餌によって読者の同一性を確保することで、「物語」の単線性の内側から多元的な時空を滑り込ませる。最後にこのようなメタファーの使用の論理的な基礎として、福尾は貞久秀紀の「明示法」に垣間見られる〈隠喩の明示的用法と明示の隠喩的用法の識別不可能性〉を据えることを提案する。

後半のパートでは、前半の発表で明らかになった両者の立場の差異を検証しつつ互いの提出した論理の限界や発展可能性について二人が話す。ひとことでいえば山本は「作り手」の、福尾は「読み手」の論理を代表しているといえるだろう。山本はすでに一貫性を持ってしまっておりそこから逃れられないような〈私〉の物語性のようなものからいかに遠ざかって多元的・多重的なレイアウトを制作し、さらにそこに複数の主体を介在させるかということに焦点を置き、福尾はそれに対して多元的なものが読者にとってたんなるカオスにしか見えなかったり粗い解像度で見られてしまったりするということを論理的に回収することを試みる。語り手が仮想的なものであるということと同じ理由で読み手も仮想的なものとして想定する必要があるというのが福尾の主張で、読み手を「人間的な」ものとして想定せざるをえないこと自体を制作の素材のひとつとして用い、それを掛け合わせたり組み替えたりする可能性を探るというのが山本の主張だろう。会場に開かれた質疑応答では、ふたりの提示するビジョンについて活発な議論が交わされる。

イベントページ:http://bigakko.jp/event/2017/inunosen...

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