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バグラチオン作戦

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Published on Dec 24, 2018

バグラチオン作戦, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3... / CC BY SA 3.0

バグラチオン作戦

バグラチオン作戦(バグラチオンさくせん、、)は、独ソ戦開始から、ちょうど3年目にあたる1944年6月22日にベラルーシで開始された、ソ連軍のドイツ軍に対する攻勢作戦の名称である。この作戦の結果、ドイツ中央軍集団は回復不可能な大打撃を受け、戦線は大きく西に押し戻される事になり、ほぼポーランドまで移動した。作戦名はロシア帝国時代におけるナポレオン・ボナパルトとの祖国戦争で活躍したピョートル・バグラチオン将軍に由来する。短期間で空前の規模の戦死者を出したとしてギネスブックに記載されるほど、苛烈な戦いであった。

1941年の独ソ戦開幕来苦戦を強いられていたヨシフ・スターリンは、イギリスおよびアメリカに対してヨーロッパ西部に第二戦線を開くことを強く要求していた。連合軍は1943年7月にシチリア島上陸作戦を、9月にはイタリア本土上陸を行ったが、スターリンはあくまでフランスへの上陸を強く求め、1943年11月に開かれたテヘラン会談において北フランスへの上陸作戦が正式に決定した。翌年6月6日に開始されたノルマンディー上陸作戦により、ようやくスターリンが求めていた第二戦線が開かれた。

連合軍による北フランス上陸作戦が不可避であることはドイツ軍も察知しており、二正面化はもはや避けられない事態に陥っていた。それまでの西部戦線は二線級の部隊の配置・訓練、もしくは壊滅状態になった部隊の再編成の場であった。そのような状態から従来の主戦場である東部戦線から西部戦線に部隊の移動、補充が実施された。さらに、可能な限りの予備が抽出され、西部戦線に送られていた。一方、激しさを増してきた米英両軍によるドイツ本土及び占領地区への空襲に対抗するために、空軍、特に戦闘機部隊が西部戦線に移動されたため、かつてヴェルナー・メルダースの活躍で知られた第51戦闘航空団など一部の精鋭部隊が残ったとはいえ、東部戦線の防空力は大幅に低下していた。

一方、1943年7月のクルスクの戦い後、主導権はソ連軍にわたり、ハリコフ、さらにキエフを奪回したソ連軍は、いずれ勢いは止むだろうとのドイツ軍側の期待を覆し、1943年末から1944年5月にかけて南北で冬攻勢、さらに春攻勢をかけていた。まず、ウクライナでは、1944年1月28日にドニエプル川西岸のチェルカースィでの第1ウクライナ方面軍(ニコライ・ヴァトゥーチン大将)および第2ウクライナ方面軍(イワン・コーネフ元帥)が攻勢を開始し、ドイツXI軍団とXXXXII軍団の6万人をコルスンに包囲し、壊滅的打撃を与えた(コルスン包囲戦)。ドニエプル河流域より駆逐された南方軍集団(エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥)は、3月にカームヤネツィ=ポジーリシクィイでの第1装甲軍(ハンス=ヴァレンティーン・フーベ上級大将)が包囲された(カメネツ=ポドリスキー包囲戦)。その後、第2SS装甲軍団などの協力を得て突破に成功したが、戦線はガリツィア地方にまで後退した。3月30日に、ヒトラーは、マンシュタインとクライストに休養を命じ、4月5日には、南方軍集団は北ウクライナ軍集団に改称され、ヴァルター・モーデル元帥が、後任に起用された。

A軍集団(エバルト・フォン・クライスト元帥)も、第3ウクライナ方面軍(ロディオン・マリノフスキー大将)に攻撃され、ブーク河を支えきれずベッサラビアまで後退した。4月5日には、A軍集団は南ウクライナ軍集団に改称され、クライストの後任には、フェルディナント・シェルナー歩兵大将が任命された。なお、クリミア半島に取り残された第17軍(エルヴィン・イェーネッケ上級大将)は大部分が海上からの脱出に失敗し、7万5千の将兵を失って5月13日にセヴァストポリは陥落した。

一方、北方では1月14日に、900日にわたり包囲されていたレニングラードの正面、さらには古都として有名なノヴゴロド付近のヴォルホフ川の両方向から攻勢が開始され、北方軍集団(ゲオルク・フォン・キュヒラー元帥)は、3月にナルヴァやプスコフのパンター線まで撤退して(ナルヴァの戦い)、レニングラードはようやく包囲を解かれた。その後、ソ連軍はエストニアへの圧迫を強めるとともに、カレリア地峡およびラドガ湖北側の東カレリアからフィンランドへの攻撃に転じ、1940年のモスクワ講和条約で定められた国境線まで、フィンランド軍を押し戻した(ヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢)。

上記のように複数方面での攻勢を連結させた一連の戦役の結果、5月末の時点で回復していないソ連領は、いまやベラルーシとバルト三国のみとなっていた。ベラルーシは、東部戦線におけるドイツ軍の主力で、装甲軍を含む多くの野戦部隊を抱えた兵力50万の中央軍集団が三年来占拠していたが、バルト海から黒海にいたる戦線のうち、上記のように南方軍集団と北方軍集団が大きく後退した結果、中央軍集団の作戦地域は「バルコン」(バルコニー)とよばれる大きな突出部を形成していた。

一方、ソ連軍からみると、前年9月の第2次スモレンスク攻防戦によってモスクワ前面の要衝スモレンスクを奪回したとはいえ、バルト海に注ぐダウガヴァ川(ドヴィナ川)沿いのヴィテプスク(ヴィチェプスク)と、黒海に至るドニエプル川流域のオルシャ(ヴォルシャ)との間に展開した、東西に鉄道と幹線道路が走る「モスクワへの陸橋」を抑える「ヴィテプスクの門」は、ドニエプル東岸の橋頭堡を含めてドイツ軍に押さえられたままだった。したがって、今後の戦局を有利に進めるためにも、中央軍集団を排除してベルリンへの最短経路でもあるベラルーシを奪還し、さらに北方軍集団・中央軍集団・北ウクライナ軍集団の間隙にくさびを打ち込むことは、戦略上極めて重要だった。とはいえ、ベラルーシは沼沢地帯と深い森が点在し、大規模な兵力展開が困難な地形で、とくに装甲部隊が攻勢をかけられる地域は限定されており、当然ながらドイツ軍はそうした地区に強力な防禦拠点を構築していた。しかし、かつて帝政ロシアの名将アレクサンドル・スヴォーロフ元帥は言った。「鹿の通れる所、そこはロシア兵も通れる」。この言葉の意味をソ連の将軍たちはよく心得ていた。

ドイツ側も、ソ連軍の夏季攻勢が近いことは予期していた。ヒトラー総統と陸軍総司令部は、コーネフによるウクライナでの春の攻勢に連続するかたちで、ガリツィア方面からバルト海にめがけて突出部を切断する大攻勢を加え、北方・中央両軍集団の背後を遮断してドイツ本土への退路を一気に断つ可能性が高いと判断した。ソ連軍による厳格な通信封鎖と夜間移動の徹底、巧妙な偽装による大軍の隠ぺいに加え、ベラルーシではソ連軍は防御拠点の構築に力点を置いて守勢に回り、一部の部隊はウクライナに移動していると見せかけた欺瞞行動が、こうした判断に確信を加える。その結果、など主力部隊を など側面に移動させ、北ウクライナ軍集団との協調にあてた。これにより、ミンスク―モスクワ街道の正面は戦力が大きく低下することとなる。

一方、ソ連空軍はドイツ空軍がドイツ本土および西部戦線に重点を移したため制空権を掌握し、補給線に対する徹底した航空攻撃を加えることができた。また、鉄道や道路への妨害工作など後方攪乱を行ってきた14万人のパルチザンは、作戦が近づくにつれて活動を激化させた。この結果、中央軍集団は補給に困難をきたすようになり、多くの兵力を後方警備に割かざるをえなくなる。

ソ連軍は、作戦開始日を3年前のバルバロッサ作戦開始日と同じ6月22日に設定し、南から第1ベロルシア、第2ベロルシア、第3ベロルシア、第1バルト、第2バルトの各方面軍(合計189個師団、兵力242万人)を1000キロにわたる前線に配置した。このうちドイツ軍中央軍集団の正面に展開したのは総兵力82万人、戦車5200両、大砲31,000門、航空機6,000機という空前の規模で、22日未明、猛烈な砲撃ののち、一斉に三方向から中央軍集団への攻撃を開始する。ドイツ軍が予測した、南部から左回りに旋回する攻勢ではなく、中央部を平押しするという作戦だった。ドイツ軍の6倍という圧倒的な航空支援と、濃密な重砲・カチューシャロケット砲の援護を受け、突破区域に戦車と歩兵を集中させて急進す...

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