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Published on Jun 29, 2019

ドイツ人民党, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1... / CC BY SA 3.0

#ドイツの政党
#ヴァイマル共和国の政党
#反共団体
#1918年設立の組織
#1933年廃止
ドイツ人民党

ドイツ人民党(ドイツじんみんとう、、略称DVP)は、ヴァイマル共和政期のドイツの政党。実業家を中心に支持され、政治スタンスとしてはリベラル右派の政党だった。ドイツ人民党の他、ドイツ国民党とも訳される。

革命直後の1918年11月16日に帝政時代のブルジョワ自由主義政党である国民自由党(Nationalliberale Partei、略称NLP)や進歩人民党(Fortschrittliche Volkspartei略称FVP)の党員たちの間で新党ドイツ民主党(Deutsche Demokratische Partei、略称DDP)結成の呼びかけが行われた。

しかし新党結成をめぐってグスタフ・シュトレーゼマンの存在が問題となった。シュトレーゼマンは戦時中に無制限潜水艦作戦など対外強硬策を唱道し、軍部のルーデンドルフの政治干渉にも賛成する立場を取ったため、自由主義者の間での彼の評判は悪くなっていた。民主党の設立メンバーのうち特にヒャルマル・シャハトとアルフレート・ヴェーバーがシュトレーゼマンの新党参加に反対した。

この「仲間外れ」の扱いに怒ったシュトレーゼマンは、1918年12月15日の国民自由党中央委員会において必要な多数の支持を得て国民自由党を「ドイツ人民党(Deutsche Volkspartei、略称DVP)」に改組することを決議した。これにより自由主義勢力の分裂は決定的となり、自由主義右派は人民党、自由主義左派は民主党へ参加することになった。ただし人民党参加者はシュトレーゼマンより右寄りであることが多く、そのためシュトレーゼマンが外務大臣となって融和的な対外政策を行っていた際、自党内でしばしば困難な立場に立たされ、党外の左派に支持を求めねばならない局面が多かった。

人民党は「実業界の親玉の政党」と俗称されたように議員の多数が大企業や銀行の取締役会や監査役会の理事で占められていたが、政党政治においては大企業や銀行から一定の自立性を有した。多くの業者別・地域別団体の頂上組織で当時最大の利益団体だった(RDI)は、人民党を中心にブルジョワ政党を支援していた。人民党はヴァイマル共和政に明確に反対しなかったが、帝政色も多分に有していた。皇位復活については当初未決定という立場を取ったが、1919年10月の第二回党大会で立憲君主制を目指すと定めた。

1919年1月の国民議会選挙では人民党の獲得議席は19議席獲得にとどまった。第一党となった社民党、第二党の中央党、第三党の民主党による連立政権「」が形成され、人民党は野党となった。同年7月のヴァイマル憲法の投票には反対票を投じた。

1920年6月の国会総選挙では与党「ヴァイマル連合」は議席を落とす一方、人民党が65議席に躍進した。この選挙の結果、社民党首班政権は崩壊し、後任の内閣には人民党を入閣させることになった。社民党には人民党への拒否感が強かったので、社民党が政権を離脱し、中央党、民主党、人民党の連立によるフェーレンバッハ内閣が誕生する運びとなった。1921年3月のロンドン会議で決まった巨額の賠償金についてフェーレンバッハ内閣は受諾不可能として辞職。賠償金を受諾した後任のヴィルト内閣には人民党は参加せず、代わりに社民党が復帰した。

しかし大統領フリードリヒ・エーベルトもヴィルトも政権安定のためには人民党を政権に入れる必要があると判断し、人民党の再入閣を呼びかけた。人民党の方でも党首シュトレーゼマンがヴァイマル共和制の情勢を安定させる必要性を説いて党内右派を抑えることに努め、再び人民党が入閣することになった。社民党が人民党の入閣に反発して政権離脱したためヴィルト内閣は瓦解したが、代わって中央党、民主党、人民党、バイエルン人民党の連立によるヴィルヘルム・クーノ内閣が成立した。以降人民党は基本的に与党であり続けることになる。

1923年1月にフランス軍によるルール占領があり、それに対してクーノ内閣は「消極的抵抗」路線を取ったが、それにより極度のハイパーインフレーションが発生した。夏までにはクーノ内閣は完全に行き詰り、代わってシュトレーゼマンを首相とする人民党首班内閣が誕生し、共産党と国家人民党の左右両極を除く全政党の支持を受けた。この内閣は3か月しか続かなかったが、ルール地方の「消極的抵抗」の中止とレンテン・マルクによるマルクの安定という功績を残した。

その後シュトレーゼマンは、1923年から1929年の死...

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