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唐津の「旧高取邸」を訪ねて

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Published on Aug 1, 2016

国の重要文化財である旧高取邸は佐賀県の杵島炭鉱を掘り当て、その石炭は上海で最優良石炭として当時の蒸気船に使用されました。高取伊好は一代で明治時代の日本の代表する富豪の一人になった佐賀人です。

邸宅は子孫が住居として10年前まで使っていましたが、2300坪の広大な敷地と文化財の維持が困難になり、国に寄贈して国指定重要文化財となってから一般公開が始まりました。

佐賀から唐津に向かう途中に、多久(たく)という地がある。山あいのひっそりとした郷だが、ここには「孔子廟」があり、古くから学問を尊ぶ気風の地として知られる。国内に現存する孔子廟としては、足利学校(栃木県)、閑谷学校(岡山県)に多久聖廟を加えた3箇所だけ。

ここで生まれた高取伊好(たかとりこれよし)の4人の兄弟は皆、幕末期の漢学者・漢詩人として名高く、また、姉の佐与は佐賀藩校弘道館の教授であった草場佩川の妻となるなど、学者一族であった。

伊好は三男で、長兄は皓、次兄は庸夫。長兄である皓は法学を学び、明治2年に大学(今の東京大学法学部)少助教、のち司法官として日本刑法を草案し、元老院議官等を歴任した。治罪法・陸海軍刑法・会社条例・破産法の編纂等、明治時代を代表する刑法学者の一人である。

伊好が学者の家に生まれながら実業界に入ったのは、どんなに努力しても学問では兄を越えることが出来なかったからだとも言われる。

伊好は伯父、草場佩川の教えを受け、漢文学の素養を身につけた。伊好は身体の大きな元気者で、人柄が温厚なため、級友の信頼が厚かった。

慶応元年(1865年)佐賀藩は長崎に藩校英学塾「致遠館」を設立し、藩内外の青年に対する新時代の教育を始めた。慶応3年18歳の伊好は藩から致遠館入学の指名を受けた。藩費で2年間長崎に派遣されるという名誉であり、立身のチャンスでもあった。しかしこの頃、80歳の養祖母キヨが病床にあった伊好は世話のため、藩の指名を辞退し、養祖母の看病をしたがキヨは半年後に他界した。伊好の心の優しさを伝える出来事として知られている。

明治2年、家人が長崎の外国人医師の診察を受けることになったので伊好は長崎に同行した。ここで運命的な体験をする。長崎港沖に高島という小島があり、佐賀藩は長崎のグラバーの力を借りて外国の最新技術を取り入れ、わが国最初の近代的炭鉱を稼動させていた。佐賀藩主の代理としてこれを経営管理していた「松林源蔵」という人物に案内され、蒸気船に乗って伊好はここを見学し、採炭現場まで足を運んだ。蒸気船、採炭機械、揚水ポンプ、昇降機など初めて眼にする近代設備に伊好は驚嘆し、圧倒された。
ここで彼は炭鉱技師を目指すことを決める。 伊好は学問優秀で明治新政府の工部省に入り、初代の「官営炭鉱技師」として長崎の高島炭鉱に着任する。高島炭鉱の所有者が明治新政府から後藤象二郎に移ってからは、経営を任され、高取は後藤象二郎の政治家としてのスケールの大きさに敬服していたので、期待に応えて奮闘し、先進国の鉱山経営を研究し、鉱山経営術を習得し、高島炭鉱の事業を拡大発展させるのである。

高島炭鉱が岩崎弥太郎の三菱に譲渡された後、
高取伊好は自ら故郷に戻り、国からも財閥からも独立した事業家として、ふるさと佐賀県における炭鉱経営に乗り出した。

散々の苦労を重ねるが、ついに佐賀県南部の北方・大町一帯に有望な炭鉱【杵島炭鉱】を見つけ、それまでに開発途中の唐津炭鉱と多久炭鉱を売却して、この杵島炭鉱一本に集中投資して勝負を賭けた。長崎の高島炭鉱に始まる伊好の鉱山技術者・経営者としての経験と知識が生かされ、この賭けは見事に当たり、杵島炭鉱は飛躍的な大発展を遂げた。発足翌年の明治43年13万トンだった生産量は翌44年には23万トン、大正6年にはついに60万トンを超えた。

杵島炭鉱は従業員は5千人を超え、炭質は九州炭の最高級とされ、上海、東京等では「キシマコール(Kishima Coal)」と呼ばれ、汽船用石炭の標準品とされた。悪戦苦闘の連続であった伊好の石炭事業はここに花開き、「肥前の炭鉱王」と呼ばれる勝利者となった。日露戦争後の好景気という幸運にも恵まれたが、そこに至る経過を見れば、文字通り不撓不屈の精神と粘りによって克ち得た成功と言えるだろう。

この杵島石炭の大成功で、明治から大正期にかけて炭鉱王の名をほしいままにし、明治日本の産業革命に大きく貢献し、大富豪となる。

一代で日本を代表する大富豪の一人となった一方で、事業で得た富を文化教育事業に注ぎ込み、著しい社会貢献をした実業家としても知られる。漢詩の詩作や書を能くする教養人、文化人でもあった。

成功した後は、唐津に住み、武雄温泉と嬉野温泉の別荘で悠々たる後半生を送った。

唐津市城内の一等地に建てられた邸宅は、唐津出身の日銀や東京駅の設計でも知られる明治時代を代表する建築家「辰野金吾」の設計と言われる。

明治時代の上流階級の住宅遺産として、国の重要文化財にも指定されている。
必見価値です。まだ正式には辰野金吾設計とは証明されていませんが証明される前に観たほうがいいですよ。

邸内は撮影禁止のため入り口だけです。
邸宅に能舞台も設置されているのはここだけらしいです。大隈重信もここにきて能を楽しんだと記されていました。

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