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沖縄の城(グスク)

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Published on Oct 17, 2019

2000(平成12)年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録されました。それは玉陵、比屋武御嶽石門、首里城跡、識名園、斎場御嶽、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡の9資産から構成されています。グスクは奄美群島、沖縄諸島、先島諸島にかけて点在する城です。防護の役割を果たす石垣や柵で築かれたグスクは、次第に大規模化されていき、城塞化されます。その時期は11世紀とも12世紀とも言われています。

沖縄本島で集落間の争いで統率する者が現れ、後に各地域を治める支配者となります。これが按司(あじ)で、グスクの主でした。按司達は互いに争い、勢力を拡大し、14世紀にはその中から沖縄本島を三つの勢力が統治するようになりました。これが北山・中山・南山という三つの国(三山)です。これらはいずれも明に朝貢しました。この時代は100年程続きます。南山の佐敷(現在南城市)按司が勢力を増し、最初に中山、次に北山、更に1429年南山を滅ぼして琉球を統一しました。

佐敷(現在南城市)按司尚巴志は中山王国を攻め滅ぼし、父の尚思紹が中山王位に即位します。これが第一尚氏の始まりです。初代尚思紹在位中に北山王国を、2代尚巴志即位後の1429年に南山王国を滅ぼし、沖縄本島を統一し、琉球王国が成立しました。第一尚氏は7代続きます。この間に沖縄諸島と奄美諸島を統治します。日本、明、李朝朝鮮、ジャワ、マラッカと交易しました。6代尚泰久王は万国津梁の鐘を鋳造しましたが、この時代に護佐丸・阿麻和利の乱が起きました。

尚泰久王の重臣であった金丸が、1469年7代尚徳王にかわって王位に就き、尚円王と名乗りました。これが第二尚氏の始まりです。第3代尚真王の時、地方の按司達を首里に集めて住まわせ、中央集権の下、先島諸島の統治権を確立しました。第二尚氏も明との進貢貿易を中心に、日本、東南アジアと広く交易を行いました。

1609年、薩摩藩島津軍3,000の兵が奄美大島に進軍し、その後沖縄本島に上陸し、首里城まで進軍しました。これに琉球軍も対抗しますが敗れました。第二尚氏7代尚寧王は和睦し、首里城は開城しました。琉球王国は薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸幕府に使節を派遣しました。その後、中国は明から清になりますが、朝貢を続けました。薩摩藩と清への両属という体制をとりながら、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持しました。奄美群島は薩摩藩に割譲されました。1853年黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍のペリー提督が首里城に入って開港を求めました。黒船は翌1854年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結し、那覇が開港しました。

1871(明治4)年廃藩置県によって、明治政府は琉球王国領を鹿児島県の管轄としました。翌1872年琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王にし、華族に列しました。明治政府は、清国との冊封関係や通交を絶ち、明治の年号を使用し、藩王が上京することなどを迫りましたが、琉球は従いませんでした。そのため1879(明治12)年武力的威圧の下で首里城で廃藩置県を通達、首里城明け渡しを命じました。琉球藩は廃止され、沖縄県が設置されました。これを琉球処分といい、450年続いた琉球王国は消滅しました。

1945(昭和20年)年、沖縄は太平洋戦争で唯一の地上戦の戦場になりました。約3カ月に及ぶ激戦は6月23日終わりました。戦後、米軍主導の下に琉球政府が誕生しましたが、沖縄は米軍の統治下に置かれました。1972(昭和47)年に沖縄は日本に返還されました。しかしながら、国土面積の0.6%にすぎない沖縄県に、在日米軍専用施設の70%以上が集中しているという現実は現在も解消されていません。

玉陵(たまうどぅん、那覇市首里金城町)は第二尚氏王統第3代尚真王が父で初代尚円王を葬るために建築したものです。玉陵は中室、東室、西室の3つに分かれています。葬儀後、中室に遺骸を骨になるまで置き、数年後に洗骨した遺骨を骨壺に収めました。東室に王と妃の骨を納め、西室に他の王族の骨を納めました。玉陵の建造物の外は中庭、外庭に石壁で仕切られています。

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん、那覇市首里真和志町)の背後の森が園比屋武御嶽です。尚氏ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し、祭っている国家の聖地でした。園比屋武御嶽石門で国王が各地を巡行する際に拝礼し、最高位の神女の聞得大君(きこえおおぎみ)が斎場御嶽で即位式をおこなう際にもここで拝礼しました。第二尚氏王統第3代尚真王が1519年に創建しました。琉球石灰岩の石材を使って竹富島出身の西塘(にしとう)によって築造されました。

首里城跡(しゅりじょうあと、那覇市首里) 首里城は琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)です。海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあります。その創建年代は明らかではありませんが、13世紀末から14世紀の多くのグスクが造営された時期だと思われます。三山時代には中山の城として使われました。尚巴志が三山を統一して琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城とし、首里は首府として栄えました。第二尚氏においても王城として使われました。首里城は数度にわたり焼失しています。太平洋戦争中の沖縄戦においても焼失しました。1992(平成4)年正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門や城郭が再建され、首里城公園が開園されました。現在の首里城は1712年以降の姿が再建されていますが、世界遺産では「首里城跡」として登録されています。2019(令和元)年10月31日未明、再建された首里城正殿から出火し、正殿、北殿、南殿などが焼失しました。

識名園(しきなえん、那覇市識名)は琉球庭園で、首里城の南にあることから南苑とも呼ばれました。第二尚氏王統第14代尚穆王の時代に造園を始め、第15代尚温王の1799年に完成しました。中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されています。完成当時は中国皇帝の使者である冊封使をもてなす迎賓館として使われました。

斎場御嶽(せーふぁーうたき、南城市) 御嶽(うたき)は琉球の神話の神が居られたり、来訪される場所であったり、祖先神を祭る聖地です。斎場御嶽は最高の御嶽を意味します。斎場御嶽には、大庫理(うふぐーい)、寄満(ゆいんち)、三庫理(さんぐーい)と首里城内と同名の拝所があります。三庫理には、岩の上に「チョウノハナ(京の花)」という最も格の高い拝所があり、クバの木を伝って琉球の創世神アマミクが降臨するとされます。最高の御嶽は最高位の神女の聞得大君(きこえおおぎみ)が管理しました。

中城城跡(なかぐすくじょうあと、中頭郡(なかがみぐん)北中城村・中城村)中城城は15世紀の護佐丸(ござまる)の城(グスク)として知られています。標高約160mの丘陵上にあります。勝連按司の阿麻和利(あまわり)は王位に就く野心を抱いていました。泰久王は娘を阿麻和利に嫁がせ、1440年に護佐丸を座喜味城から中城城の按司に任じて牽制しました。 これに対して阿麻和利は、護佐丸が反逆を企てていると泰久王に讒言しました。計略に乗せられた泰久王は、1458年阿麻和利に護佐丸を討たせました。謀反の意図のない護佐丸は自刃しました。中城城は14世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり主要部分を築きました。その後、護佐丸によって増築されます。幕末、ペリー提督がここを訪ねた際、城を見て、建築土木の技術の高さに驚きました。

勝連城跡(かつれんじょうあと、うるま市)勝連城は12世紀から13世紀頃に築かれました。標高約100mの丘陵上にあります。9代目勝連按司の家臣阿麻和利は圧政の按司をクーデターで殺害し、10代目勝連按司に就きます。海外貿易でその勢力を強めていきます。王位に就こうと野心を抱いていた阿麻和利は、護佐丸の自刃後、泰久王を狙おうとしました。しかし、王の娘の妻と付人がこれを知らせたため、王は阿麻和利を討ちました。これを護佐丸・阿麻和利の乱といいます。

座喜味城跡(ざきみじょうあと、中頭郡読谷村(よみたんそん)) 座喜味城は1416年から1422年に築城の名人と言われた読谷山按司護佐丸(ござまる)によって築かれました。標高約120mの丘陵上にあります。読谷村の全域を眺望することが出来ます。

今帰仁城跡(なきじんじょうあと、国頭郡(くにがみぐん)今帰仁村)今帰仁城は琉球王国成立以前の14世紀の北山王の居城です。1416年または1422年、尚巴志は北山王国を滅ぼしました。その後も北山地域統治の拠点として使われ、北山監守が派遣されました。

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