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検証・三鷹事件② 竹内死刑囚の訴え

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Published on Jul 30, 2019

ETV特集 戦後史の謎 検証・三鷹事件②
死刑囚竹内の訴え 1997年5月29日放送
 三鷹事件 Mitaka Incident
<2011年(平成23年)11月10日、竹内の長男が、2回目の再審請求を申し立。→2019年(令和元年)7月31日(明日)に東京高等裁判所(後藤真理子裁判長)により再審の可否が出される。>
●注意!※コメントは受け付けますが、"荒らし、否定のための否定、ヘイトスピーチ"的と判断したものは削除、非表示となります。※

三鷹事件(みたかじけん)は、1949年(昭和24年)7月15日に日本・東京都北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)と武蔵野市にまたがる日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件。詳しい事は不明で、同時期に起きた下山事件、松川事件と並ぶ国鉄三大ミステリー事件の一つとされる。

事件概要
現場を三鷹駅ホームから見る人々(1949年7月)
事件の発生とその背景

連合国軍占領期の1949年(昭和24年)7月15日午後9時23分(当時は夏時間のため現在の午後8時23分)に、国鉄三鷹電車区(現・JR東日本三鷹車両センター)から無人の63系電車4両を含む7両編成が暴走。三鷹駅の下り1番線に進入した後、時速60km程のスピードで車止めに激突し、そのまま車止めを突き破って脱線転覆した。

これにより、脱線転覆しながら突っ込んだ線路脇の商店街などで、男性6名(45歳、21歳、54歳、58歳、19歳、40歳)が車両の下敷となり即死。また負傷者も20名出る大惨事となった。

※当時、国共内戦で中国共産党の勝利が濃厚となり、日本の国政でも日本共産党が議席を伸ばしており、共産化を警戒するGHQの下で、その後始まるレッドパージの動きを先取りするように、共産党員やその支持者が当時多かった国鉄の、人員整理が進められている最中に起きた事件であった。※

・「国鉄三大ミステリー事件 背景」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%...
・「逆コース」=<戦後日本における、「日本の民主化・非軍事化」に逆行するとされた政治・経済・社会の動きの呼称>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%...
も参照

捜査・裁判

 捜査当局は、1949年(昭和24年)8月に事故によって全国ストライキを起こし、それを契機に革命を起こすという動機で、国鉄労働組合(国労)組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士[2]の竹内景助による共同謀議による犯行として彼らを逮捕した。そのうち、共産党員1人についてはアリバイが成立したため、不起訴として釈放されたが、残りの共産党員9人と竹内が起訴され、さらに2人が偽証罪で起訴された。

 1950年(昭和25年)東京地方裁判所(鈴木忠五裁判長)は、非共産党員の竹内の単独犯行として往来危険電車転覆致死罪(刑法127条、125条1項、126条3項、同条1項)により無期懲役の判決を下す一方、共同謀議の存在を「空中楼閣」と否定し他を無罪とした。一審判決で竹内が死刑ではなく無期懲役とされたのは、解雇されたことへの反発があったこと、計画性がなかったことと人命を奪うという結果を想定していなかったことが情状として挙げられた。後の歴史家が注目した、犯行時間とされた時間帯に同僚と風呂に入っていたというアリバイ証言において、検察側は同僚の証言は竹内が主張する時間より遅かったとしてアリバイを崩す姿勢を見せていたが、弁護側は何故か同僚の証言を関連性なしという理由で証人要求を拒否するなど不可思議な行動を取っている。

一 審で6人を死亡させたと認定された竹内への無期懲役判決に対しては、読売新聞、毎日新聞、産経新聞などのマスコミは被害者や遺族の意見などを紹介して批判した(朝日新聞は竹内への無期懲役判決に肯定的見解を示していた)。これに対し検察は、全員の有罪を求めて控訴・上告したが、竹内以外については無罪が確定した。竹内の控訴審で東京高等裁判所(谷中董裁判長)は、1951年(昭和26年)、竹内についてのみ検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、より重い死刑判決を言い渡した。
最高裁へ詰めかける支援者たち

 弁護人は、無罪の主張とは別に、被告人の顔も見ぬまま死刑に変更することの非道も訴えて、最高裁判所に上告したが、最高裁では口頭弁論も開かれないまま、1955年(昭和30年)6月22日に死刑判決が確定した。ところが、これが8対7の1票差であったため物議を醸した[1][3](以後の最高裁の死刑上告審理では口頭弁論を開くことが慣例となった)。竹内は死刑判決後も、文藝春秋誌に陰謀説を訴える投稿をするなど無実を訴え続けたが、1967年(昭和42年)、脳腫瘍のため45歳で獄死した。

 2011年(平成23年)11月10日、竹内の長男が、2回目の再審請求を申し立てた[4]。弁護団によれば、2019年(令和元年)7月31日(明日)に東京高等裁判所(後藤真理子裁判長)により再審の可否が出される見通しとなっている[5]。
   三鷹事件(三鷹駅構内無人列車暴走事件)
   フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%...

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