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中村元 - ブッダの生涯 【HD】

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Published on Jan 20, 2019

●本動画は後世に脚色された超人的なお釈迦様ではなく、歴史的人格としてのブッダの誕生から入滅までを解説されています。
解説者は中村元(なかむら はじめ、1912.11.28-1999.10.10)先生。インド哲学や仏教学の世界的権威で、多くの論文や著書を記され、東京大学教授、同大学文学部長、同大学名誉教授を歴任された他、東方学院の開設や比較思想学会を創設。世界各地で講演され、NHKの「こころの時代」にも度々出演され、ブッダの生の教えを広めて下さいました。

●ブッダ入滅後のインドの仏教
ブッダが入滅して約100年が経ち第二回結集(けつじゅう、編纂会議のこと)が行われた際、托鉢で金銭による布施を受けることの是非やサンガ(出家修行者の組織)の運営方法等で論争が起き(十事非法)、進歩派であり多数派の大衆部(だいしゅぶ)と、保守派であり少数派の上座部(じょうざぶ)に分裂しました(根本分裂)。
2つの部派はさらに20(異説あり)に分裂し、それぞれが独自に教義の発展と体系化を行った為、 原始仏教は部派仏教へと変容しました。

紀元前1世紀頃になると、それまで出家して厳格な戒律を守り修養を積むことによって解脱できるとしていたのに対し、出家・在家にかかわらず成仏できるとする大乗思想が興り、2世紀に空の思想を説いた龍樹が、5世紀頃に無著(無着)と世親(天親)が大乗仏教を体系化しました。こうした動きと前後して菩薩修行者が瞑想中に得た事象もブッダの真正な教えであるとして書き記すようになり、如来蔵経や勝鬘経(しょうまんぎょう)、種々の般若経(はんにゃきょう)、維摩経(ゆいまきょう)、法華経(ほけきょう)、華厳経(けごんきょう)、無量寿経(むりょうじゅきょう)その他多数の経が仏典として後世に伝えられるようになりました。

一方で5世紀頃にヒンズー教の儀礼や呪句などを取り入れた密教が出現し、上記の大乗経典と同じように大日経や金剛頂経等が7世紀頃に生まれ曼荼羅が描かれるようになり、インド国内やネパールではヒンズー教の影響が色濃くなって行きました。

12世紀になるとアフガニスタンからイスラム教政権のゴール朝がインドを侵略し、仏教寺院を次々と破壊、僧侶や尼僧を殺戮し、仏教徒はヒンズー教等に吸収され、インドでの仏教は13世紀初頭に途絶えてしまいました。

●仏教の広まり
インドやネパールではサンスクリット語で、スリランカからミャンマー、タイ、カンボジアなど東南アジア諸国には上座部の保守的な仏教がパーリ語で伝わり(南伝仏教)、シルクロードを通って中国や台湾、日本、ベトナム等には漢訳で、チベットやブータン、モンゴル等にはサンスクリット語のチベット語訳でそれぞれ主に大乗仏教が伝わり(北伝仏教)、伝承先の国策や風土、民族性、土着信仰や哲学、他の宗教、輩出した人材や翻訳者の指向等の影響を受けながら定着しました。

正確な年代は不明ながら、1世紀から2世紀頃に現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて存在していた古代王国ガンダーラに仏教が伝わると、ギリシャ文明と融合してそれまでタブーとされていたブッダの姿が表されるようになり、色々な素材でそれぞれの美意識で様々な仏像が製作されるようになり信仰の対象となっていきました。

●ネパールの仏教
ブッダ生誕の国ネパールでは、その地理的側面から早期に仏教が伝わり、インドで仏教が廃れた後もヒンズー教やカースト制の影響を強く受けながらサンスクリット語による大乗仏教を受け継いでいます。

●スリランカと東南アジアの仏教
紀元前3世紀に上座部仏教が公伝し、4世紀以後に大乗仏教や密教が入り、9世紀にシヴァ教徒が侵入、16世紀以降にポルトガルやオランダ、イギリスの支配を受け上座部仏教は壊滅的な打撃を受けたものの、12世紀にヴィジャヤバーフ1世による復興、パラッカマバーフ1世による大乗仏教や密教の排除、近隣諸国からの比丘の応援、19世紀にアナガーリカ・ダルマパーラの功績等があり、スリランカも他国の危機に応援し、東南アジア諸国ではパーリ語による上座部仏教の下、出家者(男性のみ)は厳しい戒律を守り、瞑想を行い、教理を学ぶ修行生活の中で煩悩を滅し阿羅漢になることを目指し、女性や在家信者は僧を敬い食事を布施することや寺院への寄進、パゴダの新増築(ミャンマー)、短期出家(タイ、カンボジアの成人男子)、五戒を守ること等によって功徳を積み、より良い生まれ変わりを目指しています。

●中国の仏教
仏教伝来には渡来人が活躍しました。2世紀に仏典を初めて漢訳した安世高、続く支謙や竺法護等が活躍した古訳時代、後秦の西暦401年に長安に入った鳩摩羅什や6世紀に南朝の梁の武帝に招聘された真諦の活躍(旧訳時代)によって礎が築かれ、智顗が天台宗を大成し、インドから渡った達磨が禅宗を、曇鸞が浄土教を開宗。7世紀には西遊記のモチーフになった玄奘、法相宗の基、華厳宗の法蔵、 浄土教の道綽や善導、北宗禅の神秀が、8世紀には密教の不空等が膨大な経典を訳出(新訳時代)や著作を著し、それぞれの宗派が根本経典を定め、他を相対的なものとする教相判釈を行い、宗派毎に教義の宣揚を図り中国の仏教は最盛期を迎えました。
その後8世紀の安史の乱や後の三武一宗の廃仏、文化大革命等によって、大陸での仏教は衰えましたが、漢訳仏典や各宗派の教義は台湾や日本、ベトナムでの仏教信仰に大きな役割を果たしました。

●チベットの仏教
7世紀に大乗仏教を導入し、9世紀頃にサンスクリット語の仏典が忠実にチベット語に翻訳され、その後にラン・ダルマによる廃仏が行われたものの、パーリ語、漢訳と並ぶ大蔵経を現代に受け継いでいます。8世紀以降には後期密教も伝わり、顕密一体の仏教となりました。
14世紀になると、この世の全ての衆生を救い終わるまで過去の如来や菩薩が何度も転生して現れるという化身ラマが信じられるようになり、17世紀にダライ・ラマ5世が最高権威に就いて以降、時のダライ・ラマを法王国主とする制度が定着しました。
しかし1949年に開始された中国共産党軍によるチベット併合政策以降、中国政府による侵攻や虐殺、寺院破壊、監視や隔離、洗脳が続いており、1959年にダライ・ラマ14世はインドで亡命政府を宣言し、国体とチベット仏教の保持を図っています。

●日本の仏教
日本へは飛鳥時代の538年(元興寺縁起、上宮聖徳法王帝説による)に漢訳の大乗仏教が公伝し、推古天皇の三宝興隆の詔、聖徳太子(厩戸皇子)の十七条憲法制定等で仏教の興隆に力を注がれ、豪族が氏寺を建立し信仰するようになりました。

奈良時代には唐出身の鑑真、インド出身の菩提僊那(ぼだいせんな)等を招請し、僧尼令(そうにりょう)によって僧侶になる手続きや資格を定め、南都七大寺で南都六宗が形成され鎮護国家と学問を中心とする国家仏教として発展しました。

平安時代には最澄や空海等が唐へ渡って天台や密教、禅、戒律等を学んで帰り、最澄は天台宗(台密)を開き、比叡山に戒壇(延暦寺)を建立するべく尽力し、空海は高野山に金剛峯寺を、京都に東寺を建て真言宗(東密)を開き、加持祈祷の呪術的な力を利用する密教が広がり、現世利益を主とした貴族仏教となって神仏習合も進みました。一方で後の法然や親鸞に大きな影響を与えた源信による浄土思想も人々の心に浸透していきました。

鎌倉時代になると末法思想から大衆救済志向が強まり、法然が浄土宗を、親鸞が浄土真宗を、日蓮が日蓮宗を、一遍が時宗を、能忍が達磨宗を、宋に渡って修行した栄西が臨済宗を道元が曹洞宗を開宗し、貞慶が法相宗の、高弁が華厳宗の、覚鑁が真言宗の、良源が比叡山の、律宗の叡尊・忍性が戒律の復興に尽力する等、宗祖や中興の祖となる人材を数多く輩出しダイナミックに展開しました。また僧侶の妻帯は明治時代になるまで禁止されていましたが、親鸞は出家者の肉食妻帯を禁じず自らも妻帯しました。

室町時代から安土桃山時代の間の前期には臨済宗が幕府と結びついて興隆し、曹洞宗は地方に大きな勢力を持つようになり、浄土真宗は蓮如が本願寺を再興し講を形成して北陸一帯に広まり、日蓮宗は京都で町衆の信仰を獲得しました。応仁の乱以降は一揆や石山合戦が起き大名は融和と弾圧政策を取りました。

江戸時代になると直後の1601年から1615年に主に関東と畿内の有力寺院や宗派に寺院法度が布達され、寺院が領主の境内への立ち入りを拒否できる守護不入権の廃止、僧兵や犯罪者、浮浪者の取り締まり強化、各宗派毎に本寺を複数にする、幕府の命令を宗派内に通達する触頭(ふれがしら)寺院の指定、僧侶の資格や昇格制度、寺や僧階毎に僧衣の色等の指定、検地、寺を持たない民間宗教者の新寺の建立や俗人宅を借り受けて寺院に準ずるような行為の禁止、回国先での布教禁止等の統制が開始されました。

また本寺と末寺を上下関係に組み込む本末制度も設けられ、末寺は本寺に従う、本寺の許可なく末寺に居住してはならない、法華経の信者でないものから施しを受けたり与えてはならないとした日蓮の主張を守る寺院(不受不施派)の活動禁止、本寺末寺名簿(寺院本末帳)の報告義務が課せられました。さらに主にキリスト教徒を弾圧する目的から、寺院と檀家を固定する檀家制度が制定され、全員がいずれかの寺の檀家に編入し、転居や旅行、婚姻等による家の移動時は所属する寺から証文を受けなければならないとする寺請(てらうけ)制度が定められ、寺社奉行を設置し宗旨人別改帳(戸籍)が作成され管理が徹底されました。1654年には明の隠元隆琦が来日し黄檗宗を開宗しました。

1665年になると上記政策は諸宗寺院法度として全国の寺社に布達され、各宗派の儀式・作法を守る、それを出来ない者を住職にしてはならない、本寺は末寺に理不尽な要求をしてはならない、末寺は結束して本寺に抵抗してはならない、僧階毎の僧衣色の指定、堂塔や伽藍を拡張したり華美にしてはならない、寺領の売買や質入れの禁止、出家希望者は領主や代官の許可を得る、次の住職の契約を金品で決めない、例外として妻帯を認めている浄土真宗を除いて寺に女性を住まわせてはならない等が定められました。

江戸時代中期になると檀家制度は強化され、檀家が檀那寺を変更することは認められなくなり、葬儀や法事は檀那寺で行うことが定められると武士階級だけで行われていた初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百ヶ日、一周忌、三回忌の法要を庶民も行うようになり、さらに七回忌、十三回忌、三十三回忌と増え、1700年頃には十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十七回忌、五十回忌も加わり、墓石の建立も求められるようになり、日本の仏教は葬式や先祖供養の儀礼が主になりました。

明治に入ると、1868年に神仏分離令が、1870年に大教宣布が出され、1871年に寺社の朱印地・黒印地・除地の廃止、戸籍法の制定、廃藩置県の施行、僧尼令や寺請制度の廃止等が立て続けに実施され、神道の国教化と廃仏毀釈運動の励起によって各地の寺院や仏像等が襲撃・破壊され、仏教界は政府や社会に対して存在意義の再構築を図ると共に、海外に人材を派遣してサンスクリット語やパーリ語、チベット語の仏典研究も始め、これまで宗祖にばかり向けていた視線を教祖にも注ぐようになりました。

大正、昭和、平成、令和になると、原始仏典や南伝仏教の研究が進み所属宗派の教えとは別に原始仏教と向き合う人、所属宗派を離れて新興宗教団体に移る人が現れ、一方で昭和の高度成長期以降、親や郷里から離れ都市部に就職して生活基盤を築く人や土着の生活をしない人が増え、仏教を生きる上の指針とせず、寺離れや墓離れする人も増えています。
薫拝

●索引
はじめに・・・0:00:00
誕生・・・・・0:12:26
成長・・・・・0:31:51
出家・・・・・0:54:02
悟り・・・・・1:31:52
初めての説法・1:53:28
伝道・・・・・2:08:50
入滅・・・・・2:15:40
おわりに・・・2:27:18

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