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錦絵でみるペリー来航と横浜

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Published on Aug 17, 2015

Music / The Kyoto Connection .Into the woods
https://www.jamendo.com/en/track/2122...

1854年(安政元)アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M・C・ペリー2度目の来航。
日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取ることはなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対しフランス料理を振舞い、その応饗として横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を提供した。料理は江戸浮世小路百川が300人分の膳を2000両で請負った。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円に近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで100を超える料理が出された。ペリーは条約調印の決断をねらっており、蒸気機関車の模型、有線電信機、時計、望遠鏡、小銃、農具、ミシン、地球儀、天球儀、六分儀などを含む33種類に及ぶ献上品を持参していた。ペリーが乗ってきた蒸気船やそれについている大砲自体が、未開国に対する先進国の軍事力の誇示であったが、これらの贈り物も日本人を萎縮させ、外交交渉を有利に運ぼうとするための「小道具」であった。電信機はエンボッシングモールス電信機で、応接所と、その近くの名主中山吉左衛門邸との間に電線を引き、双方から通信の実演を行い、見物した幕府の役人たちを大いに驚かせた。蒸気機関車の模型は献上品の中でも特に注目の的であった。2月15日、横浜に陸揚げされ幕府の横浜応接所裏の麦畑に1周約110メートルの円状軌道が敷設され、8日後の2月23日に運転が公開された。模型とはいうものの4分の1のスケールで機関車は長さ1.8メートルあり、石炭を焚いて時速32kmで走り、人が客車の屋根にまたがって乗ることができる立派なものであった。幕府側の役人たちは、実際初めてそれに乗ってみてその力強さとスピードに驚いたので、ペリーとしては十分なインパクトを与えることができたわけである。開国交渉の節目毎にミンストレル・ショーも開催された。ミンストレル・ショーとは黒人の扮装でこっけいな演技をして観客を喜ばせる出し物で.交渉中は幕府の高官が招待され、ショーを見て笑い楽しんだ。これに対し、将軍家からの返礼は、38名の江戸大相撲の力士を動員した相撲の供覧であった。幕府としては日本にも強い人間がいることを誇り、その儀礼格式に多少の敬意を期待したのである。土俵入り、稽古相撲、そして日本側からの贈答品として大関・鏡岩、小柳をはじめ、階ヶ嶽、猪王山、常山、荒馬、雲龍といった当時の花形力士達に米200俵を担いで船まで運ばせた。この時ある事件が勃発する。米国側の随行レスラーとボクサーが「チャンピオンに挑戦したい」と申し出たのである。指名された小柳と米国人ボクサーの間でこんなやりとりがあった。「投げ殺してもかまわぬか」「かまわん。だが殴り殺すことも許されるのか」。殺伐とした中で、大関小柳と身長208センチの幕内力士、白真弓が出陣して相撲技で粉砕した。面目をつぶされた米国側は、レスラーのウイリアムスとブライアン、ボクサーのキャノンが3人同時に小柳に襲いかかった。小柳は、キャノンのパンチをかわして小手投げを打って踏みつけ、タックルにきたブライアンを小脇に抱え込み、ウイリアムスを足払いで倒した後にベルトをつかんでつるし上げ一瞬のうちに圧勝した。

開国後の横浜村には多くの外国人が居留するようになり、圧倒的な西洋文物が流入。僅か18年後の1872年、日本初の鉄道路線が横浜ー新橋間の営業運転を開始する。
 (画中にはペリー一度目の来航時のものも含まれています)

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