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野路由紀子 うたう小倉百人一首 84番 藤原清輔朝臣

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Published on Apr 27, 2014

84番 藤原清輔朝臣

84. 長らへばまたこの頃やしのばれむうしと見し世ぞ今は恋しき     藤原清輔朝臣

現代訳
この先生きながらえるならば、今のつらいことなども懐かしく思い出されるのだろうか。昔は辛いと思っていたことが、今では懐かしく思い出されるのだから。

藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん / 1104~1177)は、左京大夫顕輔の子どもで、勅撰集や歌評などを残した優れた人物です。
 高倉天皇の時、治承元年に七十四才で亡くなっています。
 この和歌は、清輔の友達が昇進できずに悩んでいるのを慰めるために詠んだと言われています。

藤原 清輔(ふじわら の きよすけ、長治元年(1104年) - 治承元年6月20日(1177年7月17日))は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家魚名流、左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。
天養元年(1144年)、崇徳上皇より父・顕輔が勅撰集『詞花和歌集』の撰集を命ぜられ、清輔もその補助に当たったが、顕輔と対立し、ほとんど清輔の意見は採用されなかったという。その後も父に疎まれ昇進面で支援を得られなかったためか、40歳代後半まで位階は従五位下に留まった。
二条天皇に重用され『続詞花和歌集』を撰したが、奏覧前に天皇が崩御し勅撰和歌集にならなかった。久寿2年(1155年)、父から人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を伝授され、六条藤家を継ぐ。御子左家の藤原俊成に対抗した。
保元元年(1156年)従四位下。のち太皇太后宮大進に任ぜられ、藤原多子に仕えた。共に仕えた同僚平経盛とは弟・重家と共に親密な交流を持った。
多くの著作を残し六条藤家歌学を確立しただけでなく、平安時代の歌学の大成者とされる。公的な場で歌を詠むには古い歌集をみるべきだといって『万葉集』を繰り返し読んだという。歌人として認められてからは多くの歌合の判者をつとめ、歌壇を牽引する存在となった。『千載和歌集』(19首)以下の勅撰和歌集に89首が入集。家集に『清輔朝臣集』が、歌学書に『袋草紙』『奥義抄』『和歌一字抄』などがある。
小倉百人一首
84番 ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき (『新古今和歌集』雑1843)


生年: 長治1 (1104)
没年: 治承1.6.20 (1177.7.17)
藤原氏北家末茂流。父は左京大夫顕輔,母は長門守高階能遠の娘。初名は隆長。父との不和のため,官位昇進は停滞し,正四位下皇太后宮大進にとどまる。40歳代なかばまで無位無官の状態が続いたこともあって,詠歌の機会に恵まれず,久安6(1150)年『久安百首』への出詠が,公的な和歌行事への最初の登場であった。百人一首に採られた「ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋ひしき」は,30歳代の不遇な時期の心境を詠じたものである。その後は,崇徳上皇,二条天皇,九条兼実らの信任を得,数多くの歌合の判者を務めるなど,盛んな和歌活動を展開。父の没後は,歌道家六条家を継承して,御子左家の藤原俊成と共に,歌壇の指導者的地位を占めた。家集に『清輔朝臣集』があるほか,私選集『続詞花和歌集』を編纂。『奥義抄』『和歌一字抄』『袋草紙』『和歌初学抄』などの歌学書を執筆し,『古今和歌集』『後撰和歌集』の書写,校訂を行うなど,歌学者として大きな業績を残す。一方で,歌人としても,『歌仙落書』がその歌風を「風体さまざまなるにや。面白くも,また寂びたることも侍り。たけ高き筋や後れ侍らむ」と評するように,多種,多様な作風の和歌を詠じている。


清輔は平安末期の公家・歌人である。藤原北家魚名流、左京大夫・藤原顕輔の次男。最終官位は正四位下・太皇太后宮大進である。父は崇徳院に寵愛され、勅撰集「詞花和歌集」を編纂したが、清輔も手伝ったのだが、ことごとく対立し、父には疎まれていたようだ。だからながいこと官位が昇進せずにいた。
 しかし、二条天皇には重用され「続詞花和歌集」を撰し、後年、父から人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を伝授され、六条家を継ぎ、御子左家(みこひだりけ;藤原北家道長の六男・長家を祖とする流)の藤原俊成に対抗した。

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