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Published on Mar 10, 2019

蠣崎氏, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=8... / CC BY SA 3.0

#蠣崎氏
#日本の氏族
#東北地方の氏族
#渡島国
#北海道の歴史
#むつ市の歴史
蠣崎氏

蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、戦国時代から蝦夷地を本拠とした大名の氏族。糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して蠣崎氏を称する家系があり、その子孫との説がある。江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある。

下北半島は鎌倉時代以来、津軽安藤氏の支配下にあり、建武元年以後は南部氏の一族が知行していた。その系譜については以下の史料が残っている。

『北部御陣日記(東北太平記)』に拠れば、蠣崎氏は八戸根城南部師行の家臣 武田修理太夫信義から五郎信長-信吉-治部丞信道-信純(蠣崎蔵人)と続き、建武年間の頃から5代120年間、むつ市川内町蛎崎に所在した蠣崎城を居城とした。

1448年(文安5年)5月、順法寺城「北部王家」新田義純一族が蠣崎蔵人の陰謀により殺害されると、13代八戸南部政経は1456年(康正2年)から翌年にかけ蠣崎氏追討を始めた。これに対し、蔵人は松前のアイヌや安東氏・葛西氏の応援を得たが抗しきれず松前に逃げた。(康正の乱)

ただし『東北太平記』自体は、史実を確認するための史料としては疑わしい面がある点に留意されたし。

『新羅之記録』に拠れば、若狭武田氏の流れを汲む武田信広を祖とする。若狭武田氏当主信賢の子とされる武田信広が宝徳3年(1451年)に若狭から下北半島の蠣崎(むつ市川内町)に移り、その後に北海道に移住してその地を治める豪族となったという。

当時道南では蝦夷沙汰代官であった津軽安東氏の統制下にある和人の豪族が、それぞれ独立した道南十二館を築き、そこを拠点にアイヌと交易を行っていた。花沢館主蠣崎季繁もその一人にすぎなかった。長禄元年(1457年)、和人とのトラブルを契機としてアイヌのコシャマインを中心とする和人への武装闘争(コシャマインの戦い)が発生すると、12館の内10の館がアイヌに落とされた。激戦の末、蠣崎季繁の客将であった信広が鎮圧したという。これにより、蝦夷地の和人社会において蠣崎氏が優勢となり、支配を確固たるものとした。また、武田信広は蠣崎季繁の婿養子となり、蠣崎氏を継承して蠣崎信広を名乗り、拠点を勝山館に移した。文明7年(1475年)には、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太にも影響力を及ぼした。信広の子光広の時代の永正11年(1514年)に松前の徳山館に本拠を移転している。

戦国時代に入ると東北北部から北海道南部に影響力をもっていた主家である檜山安東氏から実質的に自立の傾向を見せる。蠣崎義広の時代にはアイヌの酋長・タリコナを謀殺し、その子の蠣崎季広の時代には13人の娘を安東氏などそれぞれの奥州諸大名に嫁がせて政治的な連携をはかり、戦国大名としての地位を築き上げたという。

信広の活躍を記した『新羅之記録』は松前家臣近藤家に伝来した資料で、寛永20年(1643年)に成立し、松前氏の由緒となる源義光(新羅三郎義光)以来の甲斐源氏の伝統と事跡や信広の事跡が記されている。武田信広は同時代の文書・記録資料が皆無で実在性が不明の人物であるが、若狭武田氏は戦国期に東北・北海道との交易活動を行っており、蠣崎(松前氏)の由緒(信広伝承)は甲斐源氏・武田氏の日本海交易のネットワークを前提に、東北地方の南部氏や浅利氏など甲斐源氏の同族に肩を並べる由緒として仮託されたものであると考えられている。

蠣崎季広の子・蠣崎慶広の代には上洛して、天下を平定した豊臣秀吉(関白、太閤)に拝謁することで本領を安堵された。これによって秋田氏(旧・安東氏)から名実ともに独立する事になった。天正19年(1591年)、秀吉の命に応じて九戸政実の乱に多数のアイヌを動員して参陣。秀吉の死後は徳川家康に接近して慶長4年(1599年)、姓名をアイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで松前慶広に改める。その後、慶長8年(1603年)徳川家康は征夷大将軍の宣下を受ける。こうして征夷大将軍のお墨付きを得て松前氏と改めた蠣崎氏は江戸時代を生き抜くことに成功したのである。当初は米が穫れない蝦夷において無石の島主扱いに過ぎなかったが、5代・矩広の代に交代寄合を経て、享保4年(1719年)には大名に昇格し正式に1万石格の松前藩藩主となった。幕末には、藩主の松前崇広が外様大名ながら幕府の老中に取り立てられている。

明治維新の際...

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