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Published on Mar 20, 2019

ベルリン封鎖, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1... / CC BY SA 3.0

#連合軍軍政期_(ドイツ)
#ベルリンの歴史
#冷戦
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ベルリン封鎖

ベルリン封鎖(ベルリンふうさ、)は、第二次世界大戦終結後の1948年6月、ソビエト連邦政府が西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路を封鎖した事件である。冷戦初期を象徴する出来事である。

第二次世界大戦の戦局が連合国軍に優勢になると、連合国では戦後処理に関する協議が開始された。1943年10月にはモスクワで英米ソの3か国による戦後処理についての外相会談が行われ、ドイツの無条件降伏とナチ政権の潰滅、3か国による暫定分割統治、復興協議機関としてのFACの設立などが合意事項として決定され、テヘラン会談で具体的なガイドラインが定められた。

1944年1月の第一回FAC会議で、イギリスのクレメント・アトリー副首相からドイツ領土、および特別地域として扱われた首都ベルリンの共同統治案が出され、承認されたのち9月に調印される。1944年には共同統治機関として、軍政司令部や管理理事会が設立された。1945年に入ってフランスが解放されると、共同統治国にはフランスが加えられて4か国になった。

1945年4月30日、ドイツでは総統アドルフ・ヒトラーが自殺し、5月にはドイツは連合国に無条件降伏した。先立ってソ連軍が占領状態に置いていたベルリンには各国の駐留軍が進駐するが、独ソ戦の賠償や自国の支配圏の拡大を望むソ連政府は、西側の進駐を妨害するなど非協力的で、西ベルリン地域ではソ連の秘密工作や不法行為も起こっていた。東ベルリンはソ連、西ベルリンは米英仏の3か国が統治し、実質的に2分割された。西ベルリンの周囲は全てソ連統治下のため飛地状態となった。

賠償問題などを巡り、7月のポツダム会談を最後に米ソ両国が相互不信となると、共同統治は米英仏の西側諸国と、それに対するソ連との間における対立を生じ、ベルリン市内の東西境界地域は緊張することになった。ドイツの新政府樹立がフランスの拒絶で頓挫すると、アメリカは世界政策として共産主義勢力の封じ込め(トルーマン・ドクトリン)を掲げ、1947年6月にはジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパへの経済支援(マーシャル・プラン)を発表し、イギリスとフランス(そして西ドイツ)などによる親米国家群による対ソ共同戦線を構想した。これにソ連のヨシフ・スターリンは、共産主義国家の連帯組織としてコミンフォルムを結成して対抗した。

1948年になると、分割占領された首都の全体をどこが支配するのかを巡って対立が起こった。さらにソ連はドイツとの戦争で甚大な被害が出ていたため取れるものは全てとるという方針をとったことから、早期復興を目指す西側3か国と対立した(当初はフランスもドイツに早期の賠償を課す方針だったが、ソ連への対抗上米英と同調せざるを得なくなった)。そのような対立の中、ソ連は西ベルリンへの交通制限を西側へ通達した。

4月1日に、ソ連軍政当局は西ベルリンへ向かう人員や貨物について検問を強行し、西ベルリンへの物資搬入にも制限がかけられた。さらに、5月にソ連が6月24日に東側領域において通貨改革を実施することを宣言すると、すかさず西側も6月20日より西側領域でも通貨改革を実施すると公表した。この結果、マーシャルプランに保障される西側通貨(マルクB、ドイツマルク)が力を持つようになり、東側の通貨改革は失敗することとなった。

反発を強めたソ連側は、6月24日より西ベルリンへの陸路の完全封鎖を実施。西ドイツとの間を結んでいた4本の鉄道は閉鎖され、東ベルリンとの間を結んでいた地下鉄も運休し、エルベ川と運河を経由した船舶輸送も停止され、西ドイツとの間を結んでいた4本のアウトバーンも閉鎖され、国境の検問所にはバリケードが設置されて物流を完全に停止させた。東側占領地域からの西ベルリンへの電力供給も停止された。さらに政治宣伝を行い、西ベルリン市民の取り込みを図った。ソ連側は、物資不足に反発した西ベルリン市民により暴動やストライキが発生し、やがて社会主義革命が発生することを期待していた。そして、西側に西ベルリンの支配を放棄させることを狙っていた。

この状況でもソ連側は、西側占領地域及び西ドイツ国内から西ベルリンまでの航空路については封鎖しなかった。これは1946年2月の取り決めにより、西側からベルリンまでの3本の空路、通称「ベルリン回廊」は、西側諸国による自由な利用が認められていた上に、西ベルリンに居住する市民は200...

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