【青山繁晴】宗教家の堕落と宗教の深さ[桜H22/10/8]
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10年くらい前、真夏の醍醐寺に行き、山道をずっと登って上醍醐
に行きました。一番上の土産物屋にはドライヤーが置いてあったの で頭の汗を乾かしたところ注意されました。 何でも汗の臭いが付くからやめろということでした。
それではどうしてドライヤーを置いているのかと納得がいきません
でした。 しかし、その脇を煙草をくわえた坊主が自分に注意をした人に話し
かけながら横切って行ったのです。 どうして煙草をくわえた坊主には注意しないのかと怒りで震えまし
たが辛うじて我慢しました。 最近、上醍醐で落雷による火災があったそうですが、実は煙草の不
始末ではないかと疑ってしまいます。 きっと仏教の教えを忘れた坊主に対する天罰でしょう!!!
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葬式の時に高額なお金を取る時点で、もはや自身の欲に溺れている
のでは?と私も思ったりします。 -
@susanoo0567 ただ、その信仰は、宗教団体がよく言う教義への信仰ではありませ
ん。 自分の神=守護霊=魂への信仰なので、宗教団体に所属する必要な
どまったくありません。 悪い人生の悪影響により魂が悪霊化し、どうにも手がつけられなく
なると、 おっしゃるように魂が消されることもあるようですが、それは多分
この宇宙でも数えるほどの事例しかない 最後の手段だと思いますけどね。666などは、永遠に消された(
る)ようです。
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信仰の無い方々は神でも仏でも救い様がないそうです。
その者達は魂を消滅せしめて清められるそうです。
永遠に・・・・・。
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神も悪魔も人間ではない。神と悪魔は異次元に存在するし、そして
それは人間とはまったくの別物だ。だた、人間は、神や悪魔などの 異次元の存在がこの3次元世界で活動する上での器であるため、あ る人間の意識がどちらにより近いかによって、神にも悪魔にもなり うる。そしてどの宗教にも共通するのが、創始者はより神に近い意 識を持つ聖人であっても、その後にある種の既得権益が発生すると 、より悪魔に近い意識を持つ愚劣な人間どもが集まってきて、その 宗教をのっとっているということだ。つまり悪魔にとって宗教とい うのは、神を偽装しながら強権をふるえる実に都合のよい思想体系 ということ。したがって、その宗教の始祖の教えがいくら尊くとも 、巨大利権団体と化した時点で、そんな宗教は無価値である。 -
goodfeel601 さん
宗教は哲学的にだけ求めてゆくと冷たく偏った方向に各人の器で流
されてゆきます。 あらゆる宗教を学ばせて頂きましたが、正しい教えであるならば、
どんな理由があろうとも人を排除することはしない、これが基本に 無くてはならないとわたしは考えます。 目に映る姿、形、言葉で人は感じ取るかもしれませんが、それが全
てではない、不確かな物であることを、謙虚に思惟しなくてはなら ない。 身近なところから、私達は思いやりを持ってそのように日々学んで
ゆく為に生かされているんだと思います。 宗教を持たないことも、違う宗教を持っていることも、自由です。
辞めることも、改信することも、自由です。宗教は、自分の心を磨 いてゆく指針になれば良いと思います。 -
まあ、宗教に関しては青山さんはど素人、内容がワイドショーレベ
ルで低次元、お粗末。素人と変わらない。あまり宗教批判話しに首 を突っ込まないほうがよさそうに見える。 -
日本の仏教界の堕落は明治以降の妻帯許可(命令)に象徴されてい
る。 仏陀は妻帯を禁止した。出家はそのためのものであり、悟りを開い
て覚者(仏)になるのである。東南アジアの小乗仏教界では妻帯は 考えられない。 -
日本の仏教界を堕落だのと言う前に、自分が講演会で語る内容を語
ったらいかがか。 沖縄・白梅で婦女子は2or3段目より下には降りてはいけないと
あちこちで 言っているが、どういうことか。
少女達が嫉妬するからなどと勝手に決め付けているが、それは青山
氏個人の 推測に過ぎない。これは少女達からすれば失礼な話なのではないか
。 少女達からすれば親切・配慮・気遣いの押し売りではないのか。
青山氏は今後、スピリチュアル部門で活躍されてはどうだろう。妙
案だと思うが。
四諦八正道や正法眼蔵を理解してない坊主が金文字のキャデラックに乗る。黄金や札束の好きな連中にとって宗教とは金儲けの道具である。宗教の深さは慈愛の深さである。
wannaruwae 1 year ago 18
青山さんの京都の寺でのいっけんは、既得権益の中に入ってしまうと人間はいかに堕落する弱い存在であるのかがわかりまさした。数人の坊主が金文字の入った高級外車キャデラクにのって行く様は暴力団と同じだという指摘はまさに真髄を直撃している。おそらくは、京都という歴史ある寺院は世界からも注目されてもいる。しかしながら、その中にあって坊主がその目的を見失う誘惑の多い境遇でもあるかもしれない。三蔵法師が最終地点で見た状況にも重なるところがある。そして、それらは、深く神をもとめるところとは大いに異なることである。
panapanasakura 1 year ago 10