2008年12月28日、宮崎市民プラザ(宮崎市)で、「第32回戦争体験を語り継ぐ三世代交流の集い」(原爆と戦争・宮崎空襲展を成功させる会、代表:池田一・元宮崎大学学長)が行われた。
前回の11月23日は、初年兵としてマレー作戦に参加し、その後、インパール作戦で重傷を負った宮崎市在住の山口義則さん(88)が「コタバル強襲上陸」の状況を生々しく語った。今回は、中津園子さん(72)が、広島市で被爆した当時の状況を語った。
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私は、爆心地に近い広島市中区弥生町に住んでいた。
8月6日はとても暑かった。
8歳の私は、2歳年上の姉と母の3人で出かける準備をしていると、家の高窓からものすごい光が差し込んできた。原子爆弾であった。ピカッ!
気がつくと私は、一人、つぶれた大きな屋根の上で泣いていた。泣きながら2人を探し回ると、母は家の下敷きに遭い、姉は「開けて!開けて!」と叫んでいるが姿は見えない。消防署に勤めていた兄は母を助けようとずるが、母は覚悟を決めたらしく、私と兄に「早く逃げなさい」と、厳しい声で言った。
兄は後ろ髪をひかれる思いで私を背負い、その場を去った。私は何度も後ろを振り向き、母の顔を・・・
炎の中を、兄と二人で逃げた。やっと、川へたどり着いた。
しかし、私が見た川は、地獄のようであった。
どこが川だか分からないほど、水を求める人、やけどで川に飛び込む人などであふれていた。
兄は小さな船を見つけ、私もそれに乗った。
川にいた人たちは、船のふちに手をかけて、「水をくれ!水をくれ!」と叫んでいたが、次第に船のふちから手が離れ、川の中に沈んでいった。二度と上がってくることはなかった・・・
【戦争を語り継ぐシリーズ5】
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