「空海の風景」6/7 司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送
真相はこちら→ http://blogs.yahoo.co.jp/autumn_snake_1995
入定に関する諸説
高野山奥の院の霊廟には現在も空海が禅定を続けているとされる。奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。
現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年3月21日に空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついていることをあげている[7]。
このように一般には空海は肉身を留めて入定していると信じられているが、『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、いくつかの根拠を示して火葬されたとする説もある。桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。
このように空海に関しては、史実よりも伝承のほうが多い。
弟子
十大弟子
元慶2年(878年)11月11日に空海の弟子真雅が朝廷に言上した「本朝真言宗伝法阿闍梨師資付法次第の事」[8]によれば、空海の付法弟子は、真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされる。後に、この10人を釈迦の十大弟子になぞらえ、弘法大師(空海)十大弟子と称するようになった。十大弟子の語の初出は慶長年間の成立とみられる頼慶『弘法大師十大弟子伝』。
その他の弟子
付法弟子とされる10人以外にも、多くの弟子の名が知られている。貞享元年(1684年)成立の智灯『弘法大師弟子伝』は計20人、弟子すべてを網羅することをめざした天保13年刊の道猷『弘法大師弟子譜』は計70人を載せている。
『弘法大師弟子伝』(十大弟子のぞく)...堅恵、真泰、道昌、真紹、真然、如意尼、常暁、真際、真境、真体
『弘法大師弟子譜』(『弘法大師弟子伝』にない主な者)...円行、最澄、光定、円澄
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