観光名所に乏しい大連ではロシア人街は大きな観光の目玉だ。私の知人は15分で飽きると言っていた。私も単純に観光という観点で見れば、彼の意見に同意だが、ロシア人街の表と裏を見比べたとき、しみじみと考えさせられる。
ロシア人街の表には、王侯貴族が住んでいたであろう重厚な建築に、中国的なネオンが取り付けられてチープな印象を与える建物がずらりと並んでいる。そこにどれくらいの観光客が年間訪れるのか分からないが、少なくない外貨が落ちるのだろう。
そして、その取ってつけたような安っぽい観光地のすぐ裏に、多くの貧民が住み着いている、という現実を見たとき、人間の幸せというものについて改めて考えさせられた。
人間には「絶対的な不幸」と「相対的な不幸」がある。食べ物もなく寒空に住むところもなく病気を癒す薬が無ければ、それはどんな人間にとっても不幸な境遇だ。しかし、それら全てを持っていたとしても、より多くのものを持っている者を羨ましく妬ましく思ったときに人間は相対的な不幸を感じる。
たしかに、共産主義は全体としてうまく行かなかったが、資本主義だってうまく行っているとは言えない。共産主義のもと、町全体が貧しければ、一人一人はそのひもじさをそれほど苦にしないが、誰かが裕福に成り出すと、急にそのひもじさが辛くなる。要するに相対的な不幸感が募ってくるのだ。
約1年前、日本にいた頃、ニュースなどで中国の都市と農村の格差について報じられていたのを思い出す。しかし、何も格差は都市と農村だけにあるのではないということをこの街で知った。
私は日本の行き過ぎた資本主義に嫌気がさして中国に来た。資本主義というのは大雑把に言ってしまえば、ごく一部の強欲で陰湿な人間を賛美して助長して、残りの大多数の善良な負け組を蔑む社会を産み出す。
経済学の観点で見れば、「金は天下のまわり物」なわけで、野心家を煽り立てて、とにかく金を回せばそれでいいのだ。しかし、その状況が長く続くと人間の感覚は麻痺していき、金をより多く稼いだものが勝ち、利益にならないものは価値が無い、生産性の無いものには存在する意味が無いと思い込むようになる。
また文明が発展して法律が整備されてくると、またしても人間の感覚は麻痺していき、法律で禁じられていないことは、情誼的には間違っていることでもやっても構わないと思い込むようになる。例えば、耐震偽装にしてもサブプライムローンにしても、現場で携わっていた人間に、こんな仕事をしては多くの被害者を生むということが分からなかったはずがない。が、彼らの感覚は利益至上主義のために完全に麻痺させられてしまったのだろう。
夏目漱石も作品の中で資本主義化や産業化に対して多くの警鐘を鳴らしている。芥川龍之介はレーニンは頼朝や家康にも劣らない稀代の政治的天才だと称揚していた。私はまだ政治や経済は勉強不足で詳しいことは分からないが、レーニンや毛沢東が何を目指していたのか、もう一度見直してみようと思った。
私の会社の同僚は、大連は発展しすぎていて面白みが無いと言い、競うかのように、こぞって旅行に行く。しかしどうだろうか?もうすぐ私の大連生活も1年が経とうとしているが、今日の1時間の散歩でもかなり多くのことを考えさせられる、コクのある時間を過ごすことが出来た。経済発展の光と闇に目を向ければ、むしろ非常に面白みのある街だ。これは旅行では味わえない、長く住んでいる者のみが知ることの出来る味わいなのだ。
散歩の最後のほうで、一人の男が青っ白い顔をして路上で死んだように寝ていた。人間の幸せについて、もう一度じっくり考えてみようと思った。
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