私の危険性
私の眩惑的な考え方。現実は個人によって歪められ、個人は幻影しか感知できず、したがって個人にとって、現実とは幻影である、とする私の考え方。個人はほかの個人の幻影を正確に感知できず、その幻影をもさらに歪めて見てしまい、したがって個人にとって、世界とはその個人の世界しかありえないという考え。ある個人の狂気や錯乱が現実を歪めても、狂気や錯乱に陥っているのがその個人なのか私なのか判断できないとする、不可解な私の結論。そして個人は個人の世界で神であるとする、大それた信念。
こういう私の考えは、とても危険です。自分が信じたことはすべて、世界にとって善であるとすることもできるし、自分の悪行を、世界をよりよくするための手段であるとすることもできるからです。
何よりも私の考えは、私自身にとって最も危険です。何をしても神の仕業なのだから許されると考え、自分が不死身であると本気で思ってしまうからです。健康や事故に注意するなんて、ばかばかしく思えて来ます。
しかしそれが人間本来の姿だとしたら。人間は幻を見るために生まれてきたとしたら。人間が本能的に幻を見る生物だとしたら。その幻が人間の危機を救い、健康を保ち、繁栄の礎になったのだとしたら。幻がエネルギーだとしたら。究極の人間は現実などなくても現実を作り出し、夢を現実にしてしまう生物だとしたら。そしてその夢でできた現実を食べて幸福になるとしたら。そうしたら、私は最も人間的な考え方をしているのです。最も安全で、この上なく幸福な一般人ということになります。
ただ私は、皆さんが日常無意識にやっていることを、言葉にしているだけなのかもしれません。私なりの表現方法で。
現実を杓子定規にとらえることが、生物としての人間の存在を危機に陥れる可能性があります。あまりにも客観的になることで、人間という生命の形を無視した結論を導き出す可能性があります。自分が幻影を見ていると知って、それをあえて現実であるとすることと、あくまでも現実の真の姿を追求し、絶望的挫折の人になる、あるいは現実をつかんだと錯覚したまま突き進む人になることでは、どちらが危険なのでしょうか。
私は人間の本性が善であると信じています。本能も理性も夢もすべて人の本性です。本性が私たちに歪んだ現実を見せているのです。それを受け入れずに、人として幸福になり、世界を幸福にすることは不可能だと思います。また、それが本性であれば、それを変えることは、人間を別のものにすることです。人間が人間でなくなるのは、地球が人間では生きていけない自然環境になったときでいいと思います。私たちがすべきことは、本性を受け入れることなのです。
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