吉田 茂=麻生太郎の祖父(母方)
明治11年(1878年)9月22日 - 昭和42年(1967年)10月20日
日本の外交官・政治家。第45代・第48 代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣(在任期間・1946年5月22日~1 947年5月24日、1948年10月15日~1954年12月10日)
外務大臣。衆議院議員(当選7回)。貴族院議員(勅選)。従一位・大勲位。皇學館大学 総長、二松學舍大学舎長。
サンフランシスコ講和会議(1951)。この会議で日本は敗戦国としては異例ともいえ る寛大な講和条約を結び、明くる年,独立を果たす。「戦争に負けて 外交に勝った歴史がある」。当時、日本の全権代表として条約調印に臨んだのは,ときの 首相・吉田茂。「寛大な講和条約」締結に向けた吉田の外交哲学に迫る。
聡明な頭脳と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立てた。ふくよかな 風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。
マッカーサーとの関係
マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛な る」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密 ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「De ar」を削ってしまったと言う話もある。
終戦直後のまだ国民が飢えと戦っていたころ吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧 を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカ側は結局6分の1以下 の70万トンしか輸入できなかった。しかし、餓死者はでなかった。マッカーサーが「ミ スター・ヨシダ、私は70万トンしか渡さなかったが餓死者は出なかったではないか。日 本の統計はいい加減で困る」と抗議した。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本 の統計が正確だったら、むちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の 勝ち戦だったはずです」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという。
世界情勢を見据え、日本の国益を最大限に考えての判断だったんだろうけど、自分から基地提供を申し出るっていうのは、そりゃ後世の反発に合うだろうな。どうするのが一番良かったんだろう。。
Silverstein1883 11 months ago
4:10。重要。
kikuji200702 3 years ago