以下が高地君の文章です。
テーマは「訪(とむら)うもの」です。「訪(とむら)う」は、訪れて問うこと。死者の思いを問い尋ねること。思いを探り造形につなげられないかの試みです。
散歩コースに四つ辻があり、かつては集落と集落の境界であったところで、どちらかというと負の印象が強い場所です。ここに柳の木が茂り、ぞくっとさせられることもありますが、その場所に馬頭観音石碑と庚申塚があり、民俗学的にみると独特の空間を醸しています。
馬頭観音は仏教伝来ごろの勧善懲悪の仏ではなく、近世の農耕馬の冥福を祈るために築かれたもので、今では景色と一体化し、ひっそりと稲の成長を見守っています。
庚申塚は干支の(かのえさる)の日に信心から講を開いたところ。近代化され、気に留める人も少なくなりましたが、こうした祈りの造形があります。
彼らは変化の激しい今をどう見ているのだろうか。
そんなことが気になって散歩のとき浮かんだイメージを追いかけてみました。
馬の形態や庚申(かのえさる )の日に行いの良くない人の体から抜け出す「サンシチュウ」と呼ばれるものを題材にしましたが、いかがでしょうか。
統一感のない展示ですが、それぞれの形体は陶土が下手な細工により、ベターとした,どんくさい形になり、そこにエッジやとんがりをつけてみたものです。
そして、松と杉の薪で焼きました。スマートはなく、泥臭い陶肌になりました。
まあるく、穏やかにと思いつつ、時として、とんがったり、イライラしたり、切れる己がそのまま作品に投影してしまった感じです。
あるいは現代の閉塞感の中にもがく、己の弱さを表しています。
この窯は今では住む人のない、手入れの行き届かない荒れた山間地にあり、大恩人の思いであった障害者に役立たせることも兼ねたもので、暗闇でアオダイショウがゆっくり這いずる音が長く聞こえるときは、とにかく怖いのですが、自然の中に浸っている一体感があります。窯焚きに疲れた深夜には、ハクビシンの遠吠えや、窯鳴りにより自分が今どこにいるのかと、意識が薄れる瞬間もあります。
こんなとき色見孔から上がる「ろうそく」と呼ぶ炎が神秘的です。
自分以外の不思議な力が動いていると感じます。
この夏の荒天により、思わぬ仕上がりになりました。
いまだ 技術の未熟さと成形の無理さがあり、露骨に焼きあがりに表れ難しさを感じるばかりですが、ご高覧ください。 2009年8月18日 高地 善之
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