2008年11月23日、宮崎市民プラザ(宮崎市)において、「戦争体験を子供たちに語り継ぐための第30回交流連絡会」(原爆と戦争・宮崎空襲展を成功させる会、代表:池田一・元宮崎大学学長)が行われた。
今回は、ビルマ及びインドでのインパール作戦の最前線で従軍された方の戦争体験をお聞きすることになっていたが体調不良のため、少年兵としてマレー作戦に参加し、その後、インパール作戦で重傷を負った宮崎市在住の山口義則さん(88)が、主に「コタバル強襲上陸」の状況を生々しく語った。
山口さんは、宮崎県串間市出身、20歳で徴兵のための体格検査を受けた。同じ時期に体格検査を受けたほとんどの仲間は都城第23連隊への入隊が決まったが、山口さんにはなかなか召集令状が届かない。体格検査で落とされたのではと思ったが、翌年、1941(昭和16)年3月、都城第23連隊の速射砲隊への入隊が決まった。旧日本陸軍では、対戦車砲のことを速射砲と呼び、山口さんは熊本で3ヶ月間、訓練を受けた。
その後、この速射包隊に九州各地から約250人が召集を受け、10月に小倉に集結した。そこで戦地に向かうために必要な装備の支給を受けた。支給された装備を見た山口さんは、満州に向かうのかと思ったと言う。
翌日、急に装備が変わったため、山口さんは不審に思った。戦地へ向かう佐倉丸に乗り込むも、行き先をまったく告げられなかった。
当初は40隻程度で船団を組み南方へ向かったが、4日ほど経つと山口さんたちが乗り込んだ佐倉丸などの3隻は、他の船団とは別のルートを進んだ。この時点でも山口さんたちには行き先が伝えられていなかった。気候から判断し、南方へ向かっていることだけは分かった。
さらに4日ほど経ち台湾に着くも、ここが目的地ではないことは分かっていた。いったい自分たちはどこへ向かっているのだろう・・・(第1部)
【戦争を語り継ぐシリーズ4】
山口様、貴重なお話をありがとうございました。私は開戦当日コタバルと同時に日本軍が上陸したタイのパタニで、今このビデオを見ています。コタバルには戦争博物館があり、英軍トーチカの複製や、日本軍の上陸用舟艇、銀輪部隊の自転車などが陳列されています。
宮崎の企画者の方々が、このお話を編集することなく丸ごと公開してくださっていることを有難く思います。某放送局のアーカイブは明らかに編集に作為が感じられますので。
bratwurst1999 8 months ago