La chanson de l'ouvrier de l'Ube charbon mine
宇部興産炭鉱労働者の歌
歌: メグッポイド (Vocaloid Meguppoid)
宇部炭鉱は江戸時代の初期に発見され最初は小規模で採掘されていた。場所も今の常盤池(石炭記念館のある公園)であった。というのも常盤池がある時干上がって池底から江戸時代の採炭時代の遺構がたくさん見つかったらしい。宇部炭鉱というのはこの辺り一帯の長生炭鉱、沖ノ山炭鉱、東見初炭鉱、新浦炭鉱、本山炭鉱などいくつかの炭鉱群の総称である。本格的に大規模に採炭が始まったのは明治以降だった。特に太平洋戦争前からは軍需用にも大増産が叫ばれた。明治以降の採炭坑口はもっと海側により海底に向けて大斜坑を堀り進んでいる。今でも本山炭鉱の坑口がJR小野田線、長門本山駅近くの小さな公園で保存されている。宇部(小野田)炭鉱というのはほとんど全て海底炭鉱で出水で坑道を維持するにも相当難儀した。そういう環境だったので出水事故も多く1916年に東見初炭鉱で出水事故で235人死亡。1920年新浦炭鉱で33人死亡。1942年長生炭鉱で183人死亡。とはなはだ大事故が多い炭鉱であった。
石炭の種類は美祢炭鉱のように良質の無煙炭ではなくどちらかと言えば低品質の褐炭(亜炭)だった。当時褐炭は戦時中は物資不足故、軍需用にも使用されたが戦後は主に練炭や豆炭や学校のストーブなど民生用に使用された。炭鉱は東見初炭鉱(ひがしみぞめたんこう)、沖ノ山炭鉱(おきのやまたんこう)、長生炭鉱などに複数の資本が参入し、開発が進められたが、最終的に太平洋戦争の期間を通じて買収や合併が進み、現在の宇部興産の一部となった。産出した石炭の一部は同社内でテキサコ法によりアンモニア等の基礎化学原料に転換されたり、セメント製造の燃料として用いられる等の効率的な使用が見られた。
近年、炭鉱労働に従事していた朝鮮半島からの労働者にスポットがあたるようになり慰霊行事などが盛んに行われている。 宇部市内のときわ公園には石炭記念館が設置されている。 市内の各所には、かつての炭鉱住宅が散在する。 沖ノ山炭鉱の入れ替えに使われた電気機関車が銚子電気鉄道に譲渡され銚子電気鉄道デキ3形電気機関車として動態保存されている。
作詞 花田克巳
作曲 荒木 栄
1.瀬戸内海の 海底深く
九州むけて 堀り進みゆく
宇部と小野田の 四つの炭坑を
流れる汗で ひとつに結ぶ
2.仲間の流した 血のしみこんだ
多くの友の いのちを呑み込んだ
ボタの埋立 かなしみ越えて
今日も夕日が 彩っている
3 .米騒動の 闘いのなか
倒れていった 先輩たちの
いのちは我等の 血潮にとけて
あすを明るく 染めあげている
4.スクラム組んだ おれ達の顔
ひとつひとつに 朝陽が映える
ながい歴史と 明日への希望
われら闘う 宇部興産炭鉱労働者
宇部興産の創業年は沖ノ山炭鉱設立の明治30年(1897年)とされているが、沖ノ山炭鉱をはじめとする宇部村の炭鉱群の起源は江戸期の元禄時代の頃よりはじまった製塩用の採炭事業まで遡る。これらの炭鉱群は明治期に入り山口藩石炭局による管理の下、西洋からの最新技術が導入されるようになると急速に発展するが、1872年に石炭局が廃止されて以後、元石炭局主任の福井忠次郎等によって不当に独占されていた。これを見かねた旧宇部領主福原家第24代の福原芳山(判事、後に大審院詰)が私財を投げ打ってこれらの炭鉱群を買い戻し、芳山の死後には宇部共同義会(石炭鉱区の統一管理並びに地元公共事業を推進する目的で渡辺祐策等の福原士族により設立された機関)に無償譲渡、管理され、その中から沖ノ山炭鉱が誕生した。このような公益目的による設立の経緯から沖ノ山炭鉱は当初、宇部式匿名組合と言われる独特の組織形態を採用していた。
貴重な音源をありがとうございます。
aorimu32 7 months ago