箕輪の無縁寺(むえんでら)は日本堤の尽きやうとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一二町の処に在つた浄閑寺を云ふのである。明治三十一二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てゝゐた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、又は情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり。其他(そのほか)の石は皆小さく蔦かつらに蔽はれてゐた。その頃年少のわたくしが此寺の所在を知つたのは宮戸座の役者達が新比翼塚なるものに香華を手向けた話をきいた事からであつた。新比翼塚は明治十二三年のころ品川楼で情死をした遊女盛糸(せいし)と内務省の小吏谷豊栄二人(ににん)の追善に建てられたのである。(因に云ふ。竜泉寺町の大音寺も亦遊女の骨を埋めた処で、むかし蜀山人が碑の全文を里言葉でつくつた遊女なにがしの墓のある事を故老から聞き伝へて、わたくしは両三度之を尋ねたが遂に尋ね得なかつた事がある。)
日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三四十年後(ご)の今日(こんにち)、これを追想すると、恍として前世を悟る思ひがある。堤の上は大門近くとはちがつて、小屋掛けの飲食店もなく、車夫も居ず、人通りもなく、榎か何かの大木が立つてゐて、其幹の間から、堤の下に竹垣を囲(めぐら)し池を穿つた閑雅な住宅の庭が見下された。左右ともに水田のつゞいた彼方には鉄道線路の高い土手が眼界を遮つてゐた。そして遥か東の方に小塚ツ原の大きな石地蔵の後向きになつた背が望まれたのである。わたくしは若し当時の遊記や日誌を失はずに持つてゐたならば、読者の倦むをも顧ずこれを採録せずには居なかつたであらう。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/50280_37738.html
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永井荷風「里の今昔」
この日は晴天であったせいもあり、またあまりに新しく改築されていたせいもあり、「投込寺」にはその名前のような陰惨さは微塵も感じられなかった。
Wikipediaにはこんなことも書かれていた。
「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投げ込み寺と呼ばれた浄閑寺に、「~~売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もあるが、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「~~売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっている。この場合、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされている。
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「畜生道に落とす」というのは、なかなかのものです。しかし、このごろ日本人は「無神論者」になったという声を聞くことがありますが、初詣などを視ていると、「無神論者だなんて、とんでもない」と思われてきます。ただ、むしろ「どんな神様でもいいから、わたしを幸せにしてください」という無節操な人々が増えてきた、というべきではないでしょうか。
「泪橋交差点」というところを越えると、にわかにホームレスもしくはそれに近い風体の方々が姿を現します。とはいえ、全体としては、不潔感はなく、悪臭を放っている場所もありませんでした。ただ、今回は近くの「吉原」の観察にすぐに向かってしまって、この「ドヤ街」はじっくりと視ていません。近いうち、また来ようと思います。
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