戊辰戦争の後半戦となる東北戦争に於て、薩摩藩邸焼き討ちを行った庄内藩に対して、黒田清隆指揮する官軍は寛大な処置を採った事で庄内藩の人々に感謝された。この寛大な処置は西郷隆盛の指示であると黒田清隆が明かした事により、庄内藩の人々が西郷を敬慕するようになり、本書が成立したという。
庄内の人たちは、鹿児島に赴き、あるいは江戸(東京)で、西郷に接し、折に触れて西郷の語ったことなどを帳面に書き記し、或いは記憶に留めていた。そして、西南戦争によって賊名を背負って死んだ後も、酒井忠篤は西郷に親しく接し感化を受けた旧臣と共に、秋冬の交わりに魚鳥や蔬菜を供えて小祭典を開いていたという。明治二二年(1889)二月一一日、大日本帝国憲法が公布されたのを機に、西郷の賊名が除かれ、(正三位の)追贈が行われると、これを記念して上野公園山王台に銅像を建設することになり、伊藤博文や板垣退助・大隈重信・黒田清隆ら五一人が発起人となったが、忠篤も発起人の一人になった。そして菅実秀は感激して、赤沢経言・三矢藤太郎に命じて記録や記憶を集めて、『南洲翁遺訓』を編纂させたのである。
先人に恥じ入る事ばかり。ああ、恥ずかしや、恥ずかしや。
normalizetheworld 7 months ago
太古の昔は、マンドコロ(政治)も神様&仏様を、祭ると共に其れ等を取り囲む人々に依り地域社会が構成されて来た。
開拓&開墾
田畑&道&堤防
今、当たり前の様にして在る物全て皆先達の人力に依り造られ維持管理を、為されて来た物ばかり、感謝して使わさせて頂こう。
ItsumoKokoroniTaiyou 1 year ago