「空海の風景」8/8司馬遼太郎 "街道を行く" 2002年1月15日放送
真相はこちら→ http://blogs.yahoo.co.jp/autumn_snake_1995
真言宗の開祖として
空海は、江戸時代を通して、お大師さんとして人々に親しまれていた。しかし、純正の日本に仏教という外来の不純な思想を持ち込んだとして、本居宣長などによって批判された。明治時代に入ると廃仏毀釈運動によって一時的にその評価が落ちることになった。
空海は、今もなお高野山に隠れているということから、空海が高野山に隠れてから50年ごとに「御遠忌」法要が営まれるが、明治17年(1884年)のそれは明治時代初頭であったため、上の理由から低調だったという。そのためか、昭和9年(1934年)の1100年御遠忌は単なる宗教行事にとどまらず、大阪朝日新聞や東京日日新聞などの新聞社を巻き込んだ一大キャンペーンとなった。
このキャンペーンのなかで、かつて不純な思想を持ち込んだと批判された空海は、外来の思想を日本流に換骨奪胎して紹介し、日本文化の形成に一役買った人物として評価されるようになった。これは昭和9年という時代と関係している。日本と中国の戦争すなわち日華事変がすでにこのとき開始しており、国民が団結して戦争に臨む必要があったのであり、そのために国民の英雄として空海が再評価されたのである[9]。日本統治時代の影響を受けてか、台湾には空海を祀る廟が存在する。
その後、昭和59年(1984年)の御遠忌までには高野山道路(当時は有料道路として開通・平成5年に国道370号・国道480号に指定される)が整備され、1150年御遠忌は参詣客が大幅に増え過去最高だった。当時の高野山の宿坊の参籠者はどこも定員をはるかに超し、客室以外の場所でも宿泊するほどの人出であったと、高野山内寺院の関係者はいう。これに合わせて映画「空海」(空海役:北大路欣也)が制作され、全国的な盛り上がりとなる。
映画「空海」の制作に当たり、十八派に分断されていた真言宗が、祖師のもと一致団結すべしという機運が盛り上がり、宗派を縦断した映画制作委員会が結成される。 後に、この映画制作委員会は、「全真言国際救援機構(All Shingon International Relief Agency=ASIRAアシラ)」に発展。カンボジアに「新満濃池」を作るなど様々な海外支援活動を行った。国内においては、阪神淡路大震災での炊き出しなどの活動が知られる。
書家として
書は在唐中、韓方明に学んだが、唐の地ですでに能書家として知られ、殊に王羲之や顔真卿の書風の影響を受け、また篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白のすべての体をよくした。中国では五筆和尚といわれ、日本では入木道の祖と仰がれ、書流は大師流と称された不出世の能書家である。真跡としては次のものがある。
聾瞽指帰(ろうこしいき)
『三教指帰』の初稿本に当るもので、2巻存し、入唐前、延暦16年(797年)24歳頃の書といわれる。書はやや硬いが筆力があり、後の『風信帖』に見られる書風とは異なる。金剛峯寺蔵。国宝。 灌頂歴名(かんじょうれきめい、『灌頂記』とも)
弘仁3年(812年)から弘仁4年(813年)にかけて、空海が高雄山寺で金剛・胎蔵両界の灌頂を授けた時の人名を記録した手記である。処々書き直しているが、筆力、結構ともに流露している。神護寺蔵。国宝。
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