【真説 大東亜戦争1】
●初期の勝利
昭和16年12月8日午前7時、人々は日本軍が米英軍と戦闘状態に入った事を臨時ニュースで知った。
山本五十六長官の指令により、日本の海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。
艦は次々に沈没し、飛行機も片っ端から炎上し大戦果をあげた。
夜に入り、この事が報道されると、日本国民の気分は一気に高まり、長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。
第一次世界大戦以降、力をつけてきた日本とアメリカがついに対決する事になったのである。
同じ日に、日本の陸軍部隊はマレー半島に上陸し、イギリス軍との戦いを開始した。
自転車に乗った銀輪部隊を先頭に、日本軍はジャングルとゴム林をぬって英軍を撃退しながら、シンガポールを目指し快進撃を行った。
55日間でマレー半島約1000キロを縦断し、翌年2月には、わずか70日でシンガポールを陥落させ、ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。
フィリピン・ジャワ(現インドネシア)・ビルマ(現ミャンマー)などでも、日本は米・蘭・英軍を破り、結局100日ほどで、大勝利のうちに緒戦を制した。
これは、数百年にわたる白人の植民地支配にあえいでいた現地の人々の協力があってこその勝利だった。この日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだのである。
日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した(戦後、アメリカ側がこの名称を禁止したので太平洋戦争という用語が一般化した)。
日本の戦争目的は自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして「大東亜共栄圏」を建設する事であると宣言した。
日本に続いて、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告した。
こうして日・独・伊に対抗して米・英・蘭・ソ・支が連合して戦う第二次世界大戦が本格化していった。
緒戦の勝利に日本国民は酔っていた。
だが、ここから先をどうするか、日本軍は、はっきりした見通しをもっていなかった。
●暗転する戦局
昭和17年6月、ミッドウェー海戦で、日本の連合艦隊はアメリカ海軍に敗北した。
ここから米軍の反攻が始まった。8月ガダルカナル島(ソロモン諸島)に米軍が上陸。死闘の末、翌年2月に日本軍は撤退した。
アリューシャン列島のアッツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け、ついに残った300名ほどの負傷した兵が、ボロボロの服で足を引きずりながら、日本刀をもってゆっくりと米軍ににじり寄るように玉砕していった。
こうして南太平洋からニューギニアをへて中部太平洋のアリアナ諸島の島々で、日本軍は降伏することなく、次々と玉砕していったのである。
昭和19年秋には、フィリピンが米軍の手に落ちた。アリアナ諸島の一つのサイパン島から、爆撃機B29が日本本土への空襲を開始した。同年10月、ついに日本軍は全世界を驚愕させる作戦を敢行した。レイテ沖海戦で、「神風特別攻撃隊」(特攻)がアメリカ海軍艦船に組織的な体当たり攻撃を行ったのである。
追いつめられた日本軍はここからあと、飛行機や潜航艇で、敵艦に死を覚悟した特攻をくり返していく。米軍の将兵はこれをスイサイド・アタック(自殺攻撃)といってパニックに近いおそれを感じ、のちに尊敬の念すらいだいた。飛行機だけでも、その数は2500機を超えた。
特攻は「統率の外道」(道にはずれた指導の仕方)といわれ、作戦としてはやってはならぬものであった。多くの若者たちとて、本心から望んで特攻を志願した者は少なかったかもしれない。しかしながら、故郷の家族を守るため、この日本のために犠牲になることをあえていとわなかったのである。
【真説 大東亜戦争1】
●初期の勝利
昭和16年12月8日午前7時、人々は日本軍が米英軍と戦闘状態に入った事を臨時ニュースで知った。
山本五十六長官の指令により、日本の海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。
艦は次々に沈没し、飛行機も片っ端から炎上し大戦果をあげた。
夜に入り、この事が報道されると、日本国民の気分は一気に高まり、長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。
第一次世界大戦以降、力をつけてきた日本とアメリカがついに対決する事になったのである。
同じ日...