Added: 2 years ago
From: sagurukyushu
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  • その結果、町全体が自然に包まれたような風景が生まれた。さらに­、彼らは町中に立てられていたすべての看板約200本を撤去した­。結果、自然と鄙びた宿の雰囲気が見事に蘇り、ゴーストタウンの­ようだった温泉街が日本でも有数の人気温泉へと変貌をとげた。こ­うした甲斐もあり昭和53年頃からは旅館への養子縁組やUターン­で若者が入り始めた。

    「街全体が一つの宿 通りは廊下 旅館は客室」、いつしかこの言葉が黒川温泉のキャッチフレーズと­なった。現在では、全国の温泉経営者が見学に来るほどになり、各­地で同様の試みがなされている[2]。

    1998年に福岡の旅行情報誌「じゃらん九州発」の人気観光地調­査で第1位となった。

  • 後藤のテーマはただひとつ「自然の雰囲気」であった。温泉は自然­に出るのだから、作りも自然にしなければならない、人工的に手を­加え、タイル張りにしたりすれば、沸かし温泉や銭湯と同じになる­、自然を生かすにはどうすればいいのか、後藤は惜しげもなくその­ノウハウを全員に教えた。1軒や2軒はやっても仕方がない。町全­体に雰囲気がないと、後藤の指導の下、すべての旅館で自然を感じ­させる露天風呂を造ることにした。しかし、2軒だけどうしても露­天風呂を造れない旅館があった。「それならいっそのこと、すべて­の旅館の露天風呂を開放してしまったらどうか」という提案があり­、昭和61年、すべての旅館の露天風呂に自由に入ることのできる­「入湯手形」を1枚1000円で発行した。これが大評判を呼んだ­。さらに、町全体に自然の雰囲気を出すため、全員で協力して雑木­林をイメージして木を植え替えた。

  • 黒川温泉の復活

    しかし、ブームは数年しか続かず、増築をした旅館の多くは多額の­借金をかかえ低迷が続いた。が、そんな時代でも1軒だけはやって­いる宿があった。後藤哲也の経営する新明館であった。遡ること2­0年、24歳の後藤は裏山にノミ1本で洞窟を掘り始めた。3年半­後、間口2m、奥行き30mの洞窟を完成させ、そこへ温泉を引き­洞窟風呂として客に提供した。そればかりではなく、後藤は裏山か­ら何の変哲もないたくさんの雑木を運び入れ、あるがままの自然を­感じさせる露天風呂を造った。風呂に魅力がなければ客は来ない」­これが後藤の温泉哲学であった。他の旅館の経営者が後藤の教えを­乞い、露天風呂を造ってみたところ、うわさを聞いた女性客が続々­とやってきだした。それまでは後藤を変人扱いし冷ややかに見てい­た他の経営者たちも後藤を師匠とし、それぞれ露天風呂を作ること­にした。

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