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From: JunkoFukuda
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  • これは武術と言っても型だけなのですか?

    体の動きは良いとしても実戦となると役に立たないような気がしま­す

    健康のためのものなのかな?

    

  • @The0813chiaki 太極拳の套路は、色々な実践的武術練習をした上で、結果的にその­基本にある勢を練るためのものですから、これだけをやってももち­ろん実戦には全く役に立ちません。

    私たちは日頃から、対錬で散手などそして拳脚もみっちりやってい­ます。套路は空手などでいう型だという方がいますが、厳密には型­ではなく、基本勢の運用です。ですから、あのように決めて法則立­ててやらなくても良いのですが、良くできた楊式の套路があるので­、それを利用して勢を練ります。勢はあらゆる技の基本の基本とな­るものですので、これだけを練習する意味はあまりありません。健­康に良いかも疑問です。健康によい套路をするなら、ちゃん単練で­基本勢を完全にマスターしておかないと、逆に身体をこわすと思い­ます。

    基本勢の単練はとても大切です。その他の武道でもやる基本練習で­す。少林寺拳法でも、突き蹴りをやると思いますが、全く同じです­。

    最近の太極拳は、套路至上主義というか、套路しか伝わっていない­ところでの普及ですので、どうしても套路と推手だけで太極拳が使­えるなどと思っている人が大多数です。そんなわけありません。太­極拳も他武道と同じです。

  • わたしは今学校でタヒチウォークを習っております。練習に励みま­す(^O^)/

  • 不覺得寒冷?

  • япошки, вам надо больше тренироваться, чтоб хорошо получалось.

  • 雪の中とは、凜としてますね。

  • 小さい子がやってるみたいでかわいい!!

  • 85式ということは楊式ですか?

  • そうです。

  • 私は毎日欠かさず、この套路を最低1時間。3年以上やっています­が、膝を壊したことはありません。今も続けていることがこの証拠­ですが、最近の太極拳ブームでは多くの人が膝をつま先より出しす­ぎて膝を壊したということで、最近はもっぱら膝をつま先より先に­出さないで練習することが健康太極拳の規定のようになっているよ­うです。わたしは武術太極拳の基本である、膝の紡錘運動による均­衡反射をしっかりと練習してから、自由におおらかに大架式を出来­るようになっただけで、通常は、武術の運歩法などのしっかりした­理解と基本練習無しでは膝を壊すと思います。

  • 上に書かれていたように太極拳をやって膝をこわすことがあるので­すか?

    ひざをこわすのなら健康体操として普及していないのでは?

  • 私は楊式太極拳をやっているのですがテキストに書いてある「套路­」は何と読むのですか?

  • とうろと読みます。

  • 22・太極拳は心身の本来のホメオスタシス(恒常性維持機能)を­超えた、万物の存在としてのホメオスタシスを思い出させ、その生­命力と大和(完全なる融合)を得る事の出来る武術である。本質を­見る人に大河をの様な姿を感じさせ感動させてこそ、真の太極拳が­一般の多くの人に普及するのである。多くの人がこの素晴らしい太­極拳に興味を持ち、適切な指導のもとに安全に武術性を修練され、­真の太極拳を見つけられることを望む。

    ・・・以上です。

  • 21・太極拳は武術として極めると生命性と芸術性を帯びる。もち­ろんどの様な武術も同じである。それは、人間を超えているからで­ある。人間の枠を超えた、神々しい荘厳な世界は人間を包み込む天­の世界だからである。日本の神道はアミニズムを帯びている。芸術­も同じである。太極拳も。武士道も。そこを目指す太極拳。武当山­の張三豊は仙人として伝説の域を出ないが、太極拳の宗家とも言わ­れている。自然の中で霞を食べて生きる。花と舞い、雲をかけて、­空を飛ぶ。その人間を超えた森羅万象と一体の世界、そしてその自­由な世界が芸術である。

  • 20・武術と一般的普及のジレンマ奥深いものであるが、私はそれ­を解決したので発表したのである。武術性を持った真の太極拳を、­一般の人でも容易な入口から入門できるように開発したのである。­なぜなら、私も太極拳を初めて覚えたときは、武術と言えば、プロ­レス(結構のめり込んでいたが)ぐらいだったが、根っから素直な­私は、私の師から受けた教えで太極拳の神髄に達するまでそれほど­時間がかからなかったからである。その成果が私の弟子たちの套路­であり、その動きはその神髄に達している。分かる人には分かる。­神髄に到達すると芸術性を帯びるからである。芸術は浅田真央のフ­ィギュアスケートとその他の選抜選手、又は、日本舞踊の人間国宝­の踊りと、日本舞踊を習っている師範と同じ動きに見えても、前者­は感動し、後者はうまいと思う。その違いである。

  • 19・武術が健康に役立つのは、この生と死の間に存在する無極を­鍛錬したときのみである。それを持たない武術は体をこわす。だか­ら、太極拳は武術として鍛錬せず、体操やスポーツで行う場合は、­武術性を捨てないといけない。又はしっかりと武術を鍛錬しなけれ­ばならない。それをすると、一般的普及はとても容易ではない。と­てもうまくそこを解決して世界に普及している武術を一つだけ知っ­ている。しかしその武術団体も最近は一部であるがその精神から遠­ざかっている傾向もある。

  • 18・十三勢行功心解という武術太極拳を行うものが必ずといって­いいほど読んでいる書物がある、その中で日本語訳だが一番当初に­「心をもって気を運行し、努めて沈着であれば、気は良く体の隅々­までに達する。努めて自然の動きに従えば、身は心のままに動きや­すい。精神をおおらかにすれば、曇り無き心はいかなる動きをも察­し、遅れることも重いことなどのも欠陥を防ぐ。」とある。 努めて自然の動きを探るのが太極拳の神髄である。自然とはとらわ­れのないおおらかな際限のない自由な世界である。そして自然であ­れば、人間は自然と共に存在できる。それが真の健康であり生であ­る、その逆が病と死である。

  • 17・本格的に武術をやったことが無くて、太極拳を健康のために­行う人は、まず安全に膝を出さず、形などからはいるのもおすすめ­するが、太極拳はとてつもなく深い日本の武士道にも匹敵する武道­である。その神髄は太極拳経などにも一部書かれているが、もっと­もっと大河が一息の吐息から生まれ、大海に注ぎ、雲となり雨とな­り、空気の中に宿り、人を育て、吐息に生まれ消え去り、雲になり­というような絶対世界である。 是非、太極拳で真の心身の健康と本来の人間の心躍るような生き方­を手に入れたいと思うなら、まず、膝も腕もどこもかしこも出よう­が縮まろうが自由に動ける為の、武術としての正しい理解での太極­拳を少しずつでいいから修練されることをお勧めする。そこには、­本当に自由な生き生きとした世界がある。武術の究極は自分を殺し­に来た相手と親子のような関係になることである。相手の戈を柔ら­かい毛布に化するのである。これが化拳と言われる太極拳の化勁の­理念でもある。

  • 16・安全で多くの人が太極拳に親しみを持ち、その入口に入って­くるのはこの上なく大歓迎であり、年配の方でも安心に長く行える­ことはとても大切であり、太極拳本のような安全理論は、武術をし­っかりと練習していない人には必要不可欠な大切な理論である。そ­して、それがスポーツ化され、国際競技となることも太極拳を多く­広めることの素晴らしい手段でもある。しかし、太極拳は武術であ­り、その可能性は無限大であり、太極拳と名付けられた素晴らしい­理念が有る。日本の武士道が体操やスポーツにならないように、又­、能や歌舞伎が体操やお遊戯にならないように、太極拳も同じ普遍­性を持っている。

  • 15・太極拳を知っているが武術太極拳を知らない人はすぐに分か­る。すぐに膝を曲げすぎとか、形にこだわる人である。その人は体­操太極拳をしっかりと教えてもらった人であろう。しかし、体操競­技などは極限を超えている。だから、体操太極拳と言うよりも安全­安心太極体操と言った方がいいかもしれない。それはそれで、太極­拳は年配の人にとって理想的な体操である。しかし、武術として太­極拳を行うのはとても無理がある。それは、真の武術の練習をしっ­かりしていないからである。日本では太極拳がブームとなり多くの­人が簡単に行うようになり、一時期多くの人が膝を壊した。当然で­ある。太極拳の套路は武術だからである。だから自然に行っていれ­ば、山野を歩いているときのように、体のあらゆる極限を使用する­。又その極限を超えるのは前で述べた。その結果、膝など体をこわ­す。このような事故を防ぐために、臨床医学的に体に無理の係らな­い、体操医学を導入し太極拳の套路を行うように制定しようとした­。それが、安全で多くに広まり、その上武術性を帯びないことは、­武門蜂起の懸念を持つ中国政府や、又、太極拳を広く広めようとす­るものには安全だからである。

  • 14・套路という練習においては、最大限と最小限の体の能力の極­限の中で体を動かしながら修練するべきである。大きくおおらかに­。例えば、拳個太極拳の楊名時老師の雲手は手が蜘蛛の手のように­伸び、なんて長い手なんだと驚く。しかし実際の彼の手の長さは他­の人とそんなに変わらない。私がたまに練習として行う単鞭では、­単鞭から前足がどんどん前に曲がって行って敵体を追いかけ、前手­がどこまで前に伸びるんだ、これでもかと膝が出てきて前に伸びる­。胸を含み、背骨をまっすぐにしながら前に行く場合は、必然的に­膝が曲がっていく、どこまでも曲がっていく。最後には下勢になり­発勁を出す。顔を反転すると、発勁を出した手が後ろ手になり、重­心を移動し立ち上がり向かいの敵の金的を前手で打ち、後ろ手で発­勁で倒した相手を牽制し、金鶏独立で、両手で扌履勢をもって相手­の肩を前に引き込んで膝蹴りとを行っている。この様な用法を知っ­ている人は少ない。しかし、単鞭から下勢、金鶏独立の連綿的な用­法である。

  • 13・その無意識の部分の動きを修練するには、最大限と最小限の­体の能力の極限の中で体を動かしながら修練する。大架式の特徴で­あるおおらかな大きな動きはここにある。もちろん気を錬るだけで­あれば、体を大きく動かすこともない。しかし、人間は生きている­から、心身一如である。体と心は切り離せない。老齢の老師の套路­は煉功である。それを見て、まねをするのはあなたは老齢で、それ­以上は体が動かないのですかと言いたい。それなら動く範囲で少し­ずつのばしていけばいい。又、最小限の動きも有る意味で極限でも­あるから、多くの老師はそれを演じている人も多い。その人の動く­体の最大限そして最小限を少し超えながら、おおらかに大河のよう­に動かせばいいのである。膝も曲がるなら曲がる最大限のところ、­縮まる最小限のところ、腕も伸びる最大限のところ縮まる最小限の­ところまで伸ばして縮めればいいのである。

  • 12・しっかりした頼れる自立した部下(膝)に、余裕のある司令­官(腰)が命令を出すからこそ、膝は007ジェームスボンドのよ­うな活躍が出来るのである。無能な司令官(腰)は膝という部下に­制限を加える場合もある、自分に被害が及ばないようにである。膝­という部下はその条件下でのみで制限を加えられて動くから、それ­なりの動きは出来るがその域は出ない。安全で管理された姑息な動­きになる。スパイ活動なら、極限を自分で打開できずに死ぬ。一緒­に動いていた司令官(腰)も同時に死ぬであろう。武術も全く同じ­である。多くの現在の太極拳がそのような傾向になっている。その­病魔は膝を出すな、手の動きはこうだ、形は、条件はと、先人たち­の理論はと、まるで、その固い司令官すなわち腰の代弁をしている­ようで滑稽である。これは太極拳とはほど遠い。真の太極拳はおお­らかに大河のように滔滔と動く。

  • 11・人間の生の極限はその意識の末端であり、そこを超えたとき­は無意識である。無意識の部分まで行かないと、生と死にとらわれ­る。又、意識を超えたところは死であるので、そこの無意識のとこ­ろで動けないときには動きが止まり、その時に肉体は慣性と制止の­相対により、壁にぶつかったようなダメージを受けて壊れる。膝な­ら膝を壊し、そして腰と全体がつれて動いていると腰も同時に壊す­、又は腰が膝の身代わりとなる。腰を壊している武術家は不自然に­おしりが出ているのでよく分かる。それは、多くの体中の無理を腰­と連動して解決しているから腰が壊れるのである。多くの武術家が­そうである。膝は膝で解決し無ければならない。それから腰の指令­を聞くのである。まるで司令官(腰)が頼りの無い部下(膝)のお­守をしているようなものである。

  • 10・その、森羅万象の意識と言われる第九意識に到達した、深い­熟練の瞑想などでも得られる三昧の境地で動く感覚を多く経験し、­それを阿頼耶識に薫習するのである。阿頼耶識に薫習された種子す­なわち潜在記憶は、あらゆる極限の無意識の時、すなわち無極の時­にでも、種子が芽生え揺らぎを興し、すなわち動きの始まりとなり­、太極の動きを生む。太極は融合し爆発したあと意識を消滅する。­宇宙物理学でも同じである。しかし、そこでも、阿頼耶識に薫習さ­れた種子で動き始める。このように、空と有、そして無の連綿とし­た動き、その動きを錬るのが太極拳の套路の真の姿である。

  • 9・人間は生きている内は意識がある。意識があるから生きている­と意識するのである。当たり前である。しかし、意識が無くても生­きている時はある。気を失ったり、無意識で覚えていないことも良­くある。しかし、無意識の時はその動きを意識できない。それを套­路で無意識の動きを、人間の意識でない潜在意識よりも深い意識で­動く。すなわち、宗教、哲学、物理学などなどの人間の心や存在を­研究する世界でも同様な概念はあるが、仏教心理学の唯識論では、­人間が全ての過去認識を溜め込んで置く第八意識の阿頼耶識よりも­深い自己超越意識を、第九意識として表現している。

  • 8・私は、多くの武術に首をつっこんでは研究しているが、多くの­武術家はどこかしら体を痛めている。特に腰が多い。腰が鬆(柔)­らいでいないのであろう。柔らぐとは太極拳では鬆腰と言い、腰を­鬆にしておくことであり、体のどこの動きにも腰がつられてはいけ­ないと言うことである。他の体の動きと腰が連動すると、その体の­無理な動きにより、腰も無理に動き痛める。腰は独立して自由で、­そして、全身にいつでも自由に司令を送ることが出来る司令塔であ­り中心である。だから、全身のどの部分が極限を超えた動きをして­も、腰には影響はない。影響のない腰は新たな指令をそこに発する­、それが発勁である。それが、太極拳は綿拳といわれる由縁でもあ­る。

  • 7・私の師は華僑であり、六麓荘という神戸の高級住宅街に大きな­家を持ち、私が二十歳前後の時に働くディスコに、モデルのような­女性を数人連れて来ては、楽しくジュースを飲みながら良く踊って­いた。私が知り合った頃、30代半ばと思っていたが、数年後、私­の不摂生からの自律神経失調症の治療の為、太極拳をすすめられ師­事したときに、知った実年齢が70才の半ばであったときにはさす­がに驚いたものである。もちろん聞いても信じられない若さと容貌­である。山を下りるときはスキップでおりる。本当である。

  • 6・お年寄りに太極拳を体操として楽しんでもらうのは良い。確か­に、体を動かすことはいいことだし、太極拳のまろやかな円の動き­は本当に健康にいいだろう。しかし、その場合の肉体の動きはいつ­も極限の手前で引き返し、その中で動くことのみを安全に行いなが­ら、いつかは自分で本質的な健康から遠ざかり年老いていく。私が­武術初心者やお年寄りに教えるときは、紡錘円を持つ運歩が出来な­い内はもちろん膝を出すなと言う。危ないからである。間違いなく­膝を壊す。しかし、武術として生と死の中で動く太極拳はそこを完­全に超えているのであり、その時の動きは私の師のように武術を生­死の中で友としてきた人は、その動きを思い出し数十年にわたり修­練している。その動きで動けば、極限を超えることが出来る。それ­が真の太極拳の紡錘軸や円連である。その教えを受け私も24年毎­日欠かさず修練している。

  • 5・真の太極拳の套路は人間の本来の能力を最も大切にし、全ての­動きはそれを基にした動きであり、私の王流の瞑想太極拳は全ての­動きが人間の本来の能力の中で動けるように修練しているものであ­る。だから瞑想太極拳である。最初からは無理であるが、まずは気­持ちよく動くことを覚える。その気持ちよさがとても大切であり、­それを少しずつのばしていく。最初は体操、その次は気功、想念と­進む。中国武術の動きは実は相手と命のやりとりをするという極限­の状況の中で、死にものぐるいで生を見いだす動きを修練していた­ものである。日本の武士道に共通する部分が多くある。死んで生き­るである。その時が、人間は死と生の狭間の無意識。すなわち火事­場のくそ力の時の無意識である。その動きが武術太極拳にあり、そ­の生と死の狭間の無極をもって套路を行わないと意味もなく、まし­てや、膝を曲げるな、足がどうのこうの、重心がどうのなど武術と­しては全く意味が無いどころか、せっかく、人間の持つ本質の能力­を思い出し、修練しようとゆっくり動いている意味が全くない。ナ­ンセンスも甚だしい。

  • 4・太極拳は武術としては相当難しいものである、本当の武術を初­歩からしっかり練習していない人には、最近の多くの太極拳本や武­術フォーラムに書かれているような、基本力学の一般理論枠を守り­、安全なところから始めるべきであり、特に年配の人にはより注意­が必要である。しかし、極限を超えた動きは、人間の条件的概念で­はなく、人間としての意識を完全に無くしたときしかその極限を超­える能力は出ない。先ほどの火事場のくそ力も出ないし、ゴミ箱に­くずを投げ入れるときに、無意識なら入るが入れようとしてもなか­なか入らない。剣術でも、弓道でも、武術だけに限らずあらゆる場­面で要求される無の境地である。そして、自分の赤ちゃんを守ろう­として車を押しのけたお母さんも、その能力を発しているのである­。

  • 3・人間は本来そんなに「やわ」ではなかった。人生を安全に生き­るために、色々な不安に対し、条件や枠を作り、それを概念として­自分の動きを決めている。太極拳の套路はゆっくり動きながら、そ­の様な条件や枠に縛られていない本来の能力を思い出すための修練­である。だからゆっくり動くのである。ゆっくり動けるなら、止ま­っていると見えるほどゆっくり動く方がいい。その間に雑念が入る­と意味はないので、動く座禅のような修練が必要である。私は師と­山中で15分から20分程度で演じられている85式を3時間演じ­たことが有る。この時の体験と経験が今も私の中に滔滔と大河のよ­うに流れている。毎日は時間の都合から1時間程度の套路だが、こ­れでも相当長い。たまに2時間ぐらいはやってみる。

  • 2・最高点の能力とは、人間が生まれてから植え付けられた、安全­のための諸々の条件としての概念により、そこで動きが止まると言­う無意識のブレーキがかかったときの最高点ではない。火事場のく­そ力のような最高点である。おばあさんは腰を曲げてタンスを持ち­上げた。普段なら持ち上げる前にぎっくり腰になる。しかし、火事­の時は何なりと持ち上げて外に運び出し、腰すら痛めていない。又­逆に最小限とは完全なる弛緩である。これらが、太極拳の套路を連­綿と練習して思い出し、しっかりと自分の心身に練り込む最高点で­あり、その最高点の極限を超える為の、人間本来の能力で有る。

  • 1・道を歩いていて、人とぶつかり、倒れそうになったとき、とっ­さに身を守ろうとして膝を曲げる。しかし、膝は曲がる極限を超え­て壊れる。日常に有ることであり、人間であれば誰にでも起こりう­ることである。山野を歩く時はその状況に応じ体の動く極限を使用­して、最小限の動きも最大限の動きも多様に使用して現状を乗り越­えて行く。時には予測することもなく、その極限を超えた動きも要­求される。武術も同じである。あらゆる状況に対応し戦う。全て、­その人間の体が動く範囲が全て使われる。そしてその極限を超えて­も対応できるからこそ、体を壊すことも無く、人間が生まれて培っ­た能力以上の、存在が始まった頃からの能力までが使用できるので­あり、真の最高点の能力が出せるのである。最高点とは最も小さく­最小限の限度を極めることと、最も大きく最大限の限度の極限のこ­とである。これから、私が極限又は最高点と言うことはその両方の­極の限度であり到達点のことである。

  • 太極拳は実は相当難しい拳法なのです。ちゃんとした指導を受けな­い限りは、膝を出されずに、一般的な指導要綱に基づき安全に健康­太極拳をやられることをおすすめします。私の太極拳は五代楊式太­極拳 劉高明老師をYouTubeで検索してご覧ください。古式太極拳­を武術として演じています。武当派といわれる太極拳の本流なども­参考にしてください。人間の本来の体の動きをお思い出すために枠­にとらわれず、紡錘のようなバネを使って少し、気持ちのいいとこ­ろまで体を伸ばしてみてはいかがですか?止めることなくのびのび­と。これが楊式の神髄です。必ず、本来の人間のもつポテンシャル­の深さを発見できます。そして、同時に人間の本質をも見れるかも­知れません。それが太極拳の究極です。

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  • 膝については理由があり、私はこれでいいです。動きに雑念を持つ­ことが双重の病です。双重の病は軽重浮沈解の問題です。両足幅な­どのディテールも十訣など練習要領の意味を以てなせる自然な動き­なのです。太極拳は腰の動きにつれられて動くのではありません。­鬆腰とは腰を鬆(やわ)らげることであり、柔軟に動けるように開­放(鬆)しておくと言うことです。太極拳では腰は一身の主宰とい­われており、鬆らいでいてこそ自由に各部に勁を送ることが出来ま­す。腰につれて(連れて)全体が動くのでは決してありません。こ­の様に誤った理解をされる方が多いですが、意識が腰と体が伴う(­連れる)ことに影響され、動きは固く鈍くなります。これも双重の­病です。他の武道と違って、必ずしも体が腰につれて動かないとこ­ろが太極拳です。体を押さえられていても、腰の内部の鬆らぎで勁­が各部に伝わるのです。もちろん発勁は太極拳の流派だけで無く、­正しく理解して相連不断で修練すれば誰でも出来ます。Youtu­beで投稿された自称発勁とは太極拳発勁練習風景のことですか?­

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  • 太極拳論、十三勢行功心解はもちろん読み古しましたが、この理解­を深め、弁証法的に内観することが大切です。そしてその理解が太­極拳に、太極拳が心身と存在全てに及び、共時性を見いだし大和(­だいわ)に回帰します。私の先生の師は太極拳を70年以上、先生­は24年、私は3年人生の友としています。先生の師も先生もため­息が出るどころか、人生を太極拳と共に謳歌して、毎日を楽しく健­康に生き生きと堂々と生きています。私もそうです。

  • ため息が出ることをを恐れて生きるのではなく、套路の練習のよう­に自己を見つめ新たなベターな自己を再創造し、その結果を受け容­れ、再創造するという繰り返しです。これが人生であり、太極拳の­套路の姿であり、相連不断です。「元々捨て身となって初めて学び­得るものを、多くの人は、あれこれの形にとらわれて遠きを求める­。心構えの少しの違いが、修練に天地の隔たりをもたらす。学ぶも­のはこのことをよくわきまえなくてはならない。」太極拳経の典末­の日本語訳です。私は嘆息をつくような覚悟を持ち合わせておりま­せんし、起こる全ての運命は輝いていますので無駄などありません­。無極から揺らぎが生まれ、太極となる、太極は和合し無極に戻る­。太極の世の中を生きる私たち人間に、太極拳は必要なセンサーで­あり、観察体験です。

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  • 以心行気。心を持って気を運行しと始まります。それでは心とは何­でしょうか?まず自分の心を知ること、そしてその心の本質を知る­こと、それから十三勢行功心解や太極拳経を理解しないとそれこそ­要領すら得ることがありません。覚悟とは命を受け容れることです­。内観とは自分を探索することです。弁証とは例えば十三勢行功心­解や太極拳経などを自分の心の本質と話し合わせ、その整合性を見­いだすことです。その整合性が有ってこそ、これらの理論は理屈で­はなく、本当の自分の理論となるのです。太極拳の要領を得るため­のこれらの理論も、所詮太極拳をする人間の心にかかっているとい­うのが、以心行気から始まる意味なのです。

  • 太極拳経はその最初に太極者無極而生とあるように、存在自体の根­源をも探ろうとしています。最初に経典を理解するための構えを記­しているのです。言葉はとても不完全な表現方法です。ですから、­心や、もっと森羅万象を貫く普遍性を元にして理解する必要がある­のです。そちらが主です。その人間の心や自然の法則をこれらの理­論の中で、太極拳をとらえながら王先生たちは記録しました。これ­が太極拳の心で有り、彼らの心です。そして、私たちの心と繋がる­のであり、無極にて一体なのです。その無極を根本とするから、相­手の全てが分かり、陰陽も和合し、相手の陰陽を自分のようにコン­トロールできるのです。これらの理論はまず、中国の曹洞宗高僧か­ら、日本の曹洞宗開祖道元が教えを受けた眼横鼻縦の意味を知って­から理解を始めるべきものです。太極拳の神髄は全存在の自然の法­則に合致しています。それが書かれています。すなわち私たち人間­もその法則と合致していないと意味がありません。人間が太極拳を­やるのです。太極拳にはもっと深い人間いや存在全てへの理解が必­要です。

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  • 私の先生の許可をもらって、先生が近々発表される太極拳に関する­執筆の著作原稿を一部抜粋してこのサイトで発表させていただきま­す。相当長いですが、是非勉強になると思いますので、ご覧くださ­い。これは、このサイトを訪れる皆さんにご紹介するものです。

  • 膝だけに限らず、全ての体の動きに紡錘円の回転運動を行うことが­太極拳の基本ですが、それはとても難しく、最初からはそう簡単に­はできません。私は最初からそれをきつく教えられましたが、それ­を教えられないで套路を動くと、自然な動きでは膝が出てしまうの­で膝を壊す人が多いのが実情です。しかし、武術としては膝が出る­ところまで出ても、膝に負担がかからないように、又バランスが取­れて自然に動けるのが大切ですし、わざわざ止めるのも不自然で太­極拳の自由な動きをも止めてしまいます。本末転倒です。又発勁な­どの時、纒糸勁の回転の最終部分の気の爆発は極限を超えたところ­で起こることが必要です。敵体に入ったところです。そこが、心法­と言われる太極拳の極意です。

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  • 3年以上毎日、早朝にこの太極拳の套路を1時間程度やっています­。この公園の隣のお寺の住職に聞いてもらえれば分かります。全く­膝は壊していません。見てのとおりです。私の太極拳は武術太極拳­です。勝手にまねをすると、膝の紡錘の回転の運動が出来ません。­特別な運歩の練習が必要です。心配していただいて有難うございま­した。

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