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■自給自足仲澤塾の系譜●日本における農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の歴史 1. グルントヴィを日本へ紹介した人物 デンマークの哲学者・詩人・宗教家であるグルントヴィが1844年に創立したフォルケ・ホイスコーレは、日本でも大正時代から昭和初期にかけて、「国民高等学校」と訳され、全国に設...
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■自給自足仲澤塾の系譜●日本における農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の歴史 1. グルントヴィを日本へ紹介した人物 デンマークの哲学者・詩人・宗教家であるグルントヴィが1844年に創立したフォルケ・ホイスコーレは、日本でも大正時代から昭和初期にかけて、「国民高等学校」と訳され、全国に設立された。フォルケというのは単に国民ではなく民衆のことであり、当時のデンマークにあっては即ち「農民」を指していた。グルントヴィは、国家を資本家ではなく民衆である農民が主体的に担うべきであると考え、そのためには農民にも高度な教育が必要であるとし、成人になった農業後継者が冬の6ヶ月寝食を共に学び、また夏の3ヶ月は農村女子を受け入れる学校を設立した。デンマークでは、各地にこのような学校が続々と生まれ、これらの学校の卒業生たちによって、農業(特に酪農)を主体とした自立した民主国家となることに成功した。絶対主義天皇制時代であった日本において、わずかにデモクラシーが光を浴びた大正時代、フォルケ・ホイスコーレを視察した内村鑑三(札幌農学校2期生でクラーク博士の下クリスチャンとなり、無教会キリスト教を創始した)が「デンマルク国の話」(1911、現在も岩波文庫で読める)を著し、東大の農業経済学者であった那須皓(しろし)がホルマン「国民高等学校と農村文明」を翻訳(1913)するなど、デンマーク・ブームが起こる。この、内村鑑三や那須皓の働きかけにより、各地に日本のフォルケ・ホイスコーレが生まれることになる。 1. グルントヴィを日本へ紹介した人物 デンマークの哲学者・詩人・宗教家であるグルントヴィが1844年に創立したフォルケ・ホイスコーレは、日本でも大正時代から昭和初期にかけて、「国民高等学校」と訳され、全国に設立された。フォルケというのは単に国民ではなく民衆のことであり、当時のデンマークにあっては即ち「農民」を指していた。グルントヴィは、国家を資本家ではなく民衆である農民が主体的に担うべきであると考え、そのためには農民にも高度な教育が必要であるとし、成人になった農業後継者が冬の6ヶ月寝食を共に学び、また夏の3ヶ月は農村女子を受け入れる学校を設立した。デンマークでは、各地にこのような学校が続々と生まれ、これらの学校の卒業生たちによって、農業(特に酪農)を主体とした自立した民主国家となることに成功した。絶対主義天皇制時代であった日本において、わずかにデモクラシーが光を浴びた大正時代、フォルケ・ホイスコーレを視察した内村鑑三(札幌農学校2期生でクラーク博士の下クリスチャンとなり、無教会キリスト教を創始した)が「デンマルク国の話」(1911、現在も岩波文庫で読める)を著し、東大の農業経済学者であった那須皓(しろし)がホルマン「国民高等学校と農村文明」を翻訳(1913)するなど、デンマーク・ブームが起こる。この、内村鑑三や那須皓の働きかけにより、各地に日本のフォルケ・ホイスコーレが生まれることになる。 ホルマンの「国民高等学校と農村文明」を翻訳した那須皓らが呼びかけて国民高等学校協会が結成され、1926年、茨城県宍戸町(現支部町)に「日本国民高等学校」が設立された。山形自治講習所の所長だった加藤完治が校長、農業報国連盟理事長や全国農業会会長も務めた石黒忠篤が理事長となった。皇道主義的農本主義に基づいており、後に水戸市に移転し「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」というものものしい名称に改変される。戦後46年に白河報徳開拓農業組合長となり、53年に「日本高等国民学校」と改名して国民高等学校を再開し、これは現在も「日本農業実践学校」として継続している
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■自給自足仲澤塾の系譜 日本における農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の歴史 1. グルントヴィを日本へ紹介した人物 デンマークの哲学者・詩人・宗教家であるグルントヴィが1844年に創立したフォルケ・ホイスコーレは、日本でも大正時代から昭和初期にかけて、「国民高等学校」と訳され、全国に設立...
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■自給自足仲澤塾の系譜 日本における農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の歴史 1. グルントヴィを日本へ紹介した人物 デンマークの哲学者・詩人・宗教家であるグルントヴィが1844年に創立したフォルケ・ホイスコーレは、日本でも大正時代から昭和初期にかけて、「国民高等学校」と訳され、全国に設立された。フォルケというのは単に国民ではなく民衆のことであり、当時のデンマークにあっては即ち「農民」を指していた。グルントヴィは、国家を資本家ではなく民衆である農民が主体的に担うべきであると考え、そのためには農民にも高度な教育が必要であるとし、成人になった農業後継者が冬の6ヶ月寝食を共に学び、また夏の3ヶ月は農村女子を受け入れる学校を設立した。デンマークでは、各地にこのような学校が続々と生まれ、これらの学校の卒業生たちによって、農業(特に酪農)を主体とした自立した民主国家となることに成功した。絶対主義天皇制時代であった日本において、わずかにデモクラシーが光を浴びた大正時代、フォルケ・ホイスコーレを視察した内村鑑三(札幌農学校2期生でクラーク博士の下クリスチャンとなり、無教会キリスト教を創始した)が「デンマルク国の話」(1911、現在も岩波文庫で読める)を著し、東大の農業経済学者であった那須皓(しろし)がホルマン「国民高等学校と農村文明」を翻訳(1913)するなど、デンマーク・ブームが起こる。この、内村鑑三や那須皓の働きかけにより、各地に日本のフォルケ・ホイスコーレが生まれることになる。 1. グルントヴィを日本へ紹介した人物 デンマークの哲学者・詩人・宗教家であるグルントヴィが1844年に創立したフォルケ・ホイスコーレは、日本でも大正時代から昭和初期にかけて、「国民高等学校」と訳され、全国に設立された。フォルケというのは単に国民ではなく民衆のことであり、当時のデンマークにあっては即ち「農民」を指していた。グルントヴィは、国家を資本家ではなく民衆である農民が主体的に担うべきであると考え、そのためには農民にも高度な教育が必要であるとし、成人になった農業後継者が冬の6ヶ月寝食を共に学び、また夏の3ヶ月は農村女子を受け入れる学校を設立した。デンマークでは、各地にこのような学校が続々と生まれ、これらの学校の卒業生たちによって、農業(特に酪農)を主体とした自立した民主国家となることに成功した。絶対主義天皇制時代であった日本において、わずかにデモクラシーが光を浴びた大正時代、フォルケ・ホイスコーレを視察した内村鑑三(札幌農学校2期生でクラーク博士の下クリスチャンとなり、無教会キリスト教を創始した)が「デンマルク国の話」(1911、現在も岩波文庫で読める)を著し、東大の農業経済学者であった那須皓(しろし)がホルマン「国民高等学校と農村文明」を翻訳(1913)するなど、デンマーク・ブームが起こる。この、内村鑑三や那須皓の働きかけにより、各地に日本のフォルケ・ホイスコーレが生まれることになる。 ホルマンの「国民高等学校と農村文明」を翻訳した那須皓らが呼びかけて国民高等学校協会が結成され、1926年、茨城県宍戸町(現支部町)に「日本国民高等学校」が設立された。山形自治講習所の所長だった加藤完治が校長、農業報国連盟理事長や全国農業会会長も務めた石黒忠篤が理事長となった。皇道主義的農本主義に基づいており、後に水戸市に移転し「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」というものものしい名称に改変され、戦後46年に白河報徳開拓農業組合長となり、53年に「日本高等国民学校」と改名して国民高等学校を再開し、これは現在も「日本農業実践学校」として継続している
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